皆様こんにちは。浄土真宗 武庫之荘 寺院 真光寺 楠木光雲です。
本日は、親鸞聖人のかっこいい所を皆様にお届けしたいと思います。
親鸞聖人がお書きになられました『顕浄土真実教行証文類』という書物に次の御文があります。
「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
(ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。)
親鸞聖人は、阿弥陀様がこの私を目当てにおはたらきくださっていることに対して、深く感動し、感謝し、心からお慶びになられているのです。
次に、もう一つ『歎異抄』という書物に記載されている内容もご紹介させていただきたいと思います。
『歎異抄』という書物には唯円坊と親鸞聖人のやりとりが記載されています。
唯円坊は親鸞聖人のお弟子様です。
つまり、師弟のやり取りが描かれているのです。
あるとき、唯円坊は親鸞聖人に対して言いました。
「私は毎日お念仏を大切にし、お勤めをさせていただいております。しかし、正直に申し上げますと、お念仏をしていても、心躍るような慶びを感じられないのです。」
親鸞聖人は唯円坊に答えます。
「そうか。それは本当につらい想いをしたな。よく正直に心の内を言ってくれたね。しかし、唯円よ、実は私もそうなのだ。慶べない心のときもある。けれども、そのように慶ぶべきことを慶べない私に焦点が当たっていると思うのだ。そんな私たちだからこそ阿弥陀様の救いの目当てなのだよ。」
サラッとこのやり取りを書かせていただきましたが、よく考えてみればこのやり取り、本当に凄いことなのです。
普通、弟子がそうようなことを言ったならば、師匠は御立腹になられるはずです。
「何をいっているんだ!もっと心を改めなさい!」と。
でも、そのようにしなかったのは、阿弥陀様のおはたらきは私の心の安定度や心の善し悪しを条件にしないからです。
そして、さらに申し上げますと、親鸞聖人は唯円坊のために目線を合わせられたのです。
親鸞聖人はおそらく阿弥陀様のお救いに対して心からお慶びになられていたはずです。
先ほどの『顕浄土真実教行証文類』の御文にもご本人がお慶びになられていることがしっかりと表れています。
では、何故わざわざ「実は私もそうなのだ」と言ったのでしょうか?
それは、親鸞聖人なりの唯円坊に対する優しさといいますか、気遣いだったのではないでしょうか。
信頼している師匠に、思い切ってカミングアウトしてくれた唯円坊。
その一生懸命正直に伝えてくれた唯円坊が一番求めていた言葉は、一喝することではなく、私も同じ気持ちだよ、だったのではないかと思います。
師匠から共感の言葉をもらったときの心のあたたかさは言うまでもありません。
親鸞聖人はそのように、カッコいいお方なのです。
そんなカッコいいお方のお姿を今年も真似ば(真似をし学ぶこと)させていただきたいと思います。
南無阿弥陀仏