「甘える」と「拠り所にする」は違う

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

本日はタイトルにもありますように、「甘える」と「拠り所する」は全然違うということを共々に味わさせていただきたいと思います。

いきなり本題に入りますが、浄土真宗は他力本願の教えです。

しかし、楽で何もしなくて良い訳ではありません。

今まで何百回と説明してきましたが、何もしなくて良い、何も変化がないならば、信仰しない方がいいです。

時間の無駄だと思います。

やはり、信仰させていただくからには私の上に変化が生じるわけでございます。

確かに、頭の先からつま先までどこを探しても私の心には仏様のような心は見当たらないですし、煩悩は生涯つきまといます。

私たちの命はそのままがもうすでに有難い命というのももちろんおさえておかなければなりません。

しかし、やはり仏様という存在によって色んなことを知らさせ気付かされたならば、行動を起こしていくべきです。

起こしていくべきというか、起こしていかざるを得ないのでしょうね。

起こしていかなかったら仏様に申し訳ないという感覚だと思います。

仏様に本来あるべき姿やお心を知らされたら、もう今までの自分の言動の愚かさに恥ずかしくて恥ずかしくてもうどうしようもなくてそれを脱したいと思うはずです。

もし、そう思わないならば、まだ仏様という存在を自分の中での本尊に出来ていないということだと思います。

もっと簡単にいうと、自分の人生で仏様という存在を一番大事と見れていないということです。

もしそう見れているのであれば、仏様が知らせてくれるその教えに対して、私もどうかそうでありたい、と思うのではないかと思います。

何を申し上げたいのかというと、やはり仏様の願いにかなった生き方を一生懸命させていただくということは本当に大切だということです。

そのままでいいという言葉を誤解せずに理解していくべきだと思います。

私たちの命は何が起ころうとも尊いと知らされます。

それに、仏様はいちいちこうしなさいああしなさいということは言わないけれど、やはり仏様にお教えいただいその生き方を、かたじけない(ありがとうとごめんなさい)という想いと共に、実行していきたいものでございます。

南無阿弥陀仏

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