浄土真宗は何もしなくていい?part2

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日も、浄土真宗は何もしなくていいのか?ということについて、お話をさせていただきます。

一つ質問をさせていただきます。

「あなたは手が汚れていたらどうしますか?」

・・・・・。

何を言っているのですか。当たり前に手を洗うか、汚れを取り除くに決まってるじゃないですか。

と、お思いになられませんでしたでしょうか?

私もそのように思います。

でも、宗教の場合は違うように思われているようです。

浄土真宗の教えは他力本願なので、何もしなくていいということですか?というご質問を何百回と聞いてきました。

浄土真宗では、自分は煩悩具足の凡夫(煩悩に振り回される愚かな私)と知らせていただきます。

煩悩という言葉も煩い悩むと書きます。

真剣に心の底から煩い悩んだ人が使った言葉ということです。

手が汚れている。

つまり、私は自己中心的な生き方をしている愚かな浅ましい恥ずかしい人間である。

と気付いたらどうするか?ということです。

手が汚れていて、あぁ汚れているな、と思って放置する人がいますか?

一緒のことです。

私は恥ずかしい生き方をしている、という風に思ったら、思ったと同時にそのままでは嫌だと思うはずです。

もちろん浄土真宗は生き方は問われません。

しかし、その言葉は謙虚さから出る言葉だと私は味わわさせていただいております。

そのまま鵜呑みにして、本当に適当に何も考えずにダラダラと生活をしていいのかというと、そんな教えであればめちゃくちゃになります。

そのような薄っぺらい教えであれば、何百年という歴史がある宗教になってません。

仏様に我が身が煩悩具足の凡夫と(心の底から)知らされたら、ほんの少しでもそれを脱したい、仏様のようにはなれないかもしれないけれど、仏様のようにならせていただきたい、と思うのです。

こんな素晴らしい生き方やお心を知らせてくれているのだから、なんとかそのようにしたい、と思うはずです。

思えない、思わない、ならばそれは仏様を尊いと仰げていないということです。

仏様を拝む前と拝む後は全然違います。

拝むといいましてもただ単に格好だけ(外面だけ)手を合わせるってことではありません。

内なる(内面の)拝みです。

私の心の中で仏様を真剣に一番大事だと思うということです。

仏様を真剣に一番大事だと思うことを拝むというのだと思います。

話を戻しますが、浄土真宗は何もしなくていいのですか?という問いが出るということは、仏様が一番大事だと思えていないのかもしれません。

仏様を一番尊いと位置付けをすることの意味を自分の中でしっかりと持たせていただくことが重要です。

浄土真宗の教えは、自分の持ち場持ち場で精一杯努力し、仏様のような生き方を目指して自分の煩悩具足という愚かな部分を出来る限り意識して生活をさせていただく、ということではないかと思います。

南無阿弥陀仏


浄土真宗は何もしなくていい?part2」への2件のフィードバック

  1. 時宜を得た お言葉 ありがとうございます。
    絶対他力こそ 真宗の本質です。

    • 薮野様

      真宗の本質であります「他力本願」を正確にきちんと受け止めていただくには、私たち僧侶がもっともっとわかりやすい言葉で取り次いでいくべきだと思っております。
      そのためにも、自分自身もっともっと深く味わわさせていただいて、誰でもわかるような簡単でわかりやすい言葉でお取り次ぎ出来るように頑張っていきたいと思います。
      コメントいただき、本当にありがとうございます。

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