有難い話とは?

皆様こんにちは。浄土真宗 尼崎市 武庫之荘 真光寺 楠木光雲です。

ふと有難い話とは何なのか?と考えました。

有難いとは文字の如く、有ることが難しいということです。

つまり、当たり前に考えられることではなく、普段は考えることが出来ないことや感じることが出来ないことを、考えることが出来たり感じられたりすれば、それは有難い話なのではないでしょうか。

普段考えないことはどんなことがあるでしょうか?

案外、自分自身のことは考えているようで考えていないのではないかと思うのでございます。

たとえ話を出すならば、私は私のことをよく知っていない証拠に私は私の顔を直に見たことがありません。

顔を見るには鏡という虚像(本物ではなくコピー、偽物)が必要なのです。

後頭部を見ようものならば、鏡という虚像を2枚も合わせなければ、自分の後頭部を見ることが出来ないのです。

何を申し上げたいかといいますと、私は私のことをよく知らないということです。そして、私は私のことをよくみることが出来ず、深く理解出来ていません。

私たちの世界にある鏡は全く頼りになりません。

デパートなんかに行って全身を見ることができる鏡を見てみてもそうです。

全身のコーディネートを確認することがあると思います。

バッチリだと思っていても、それは実はその鏡はスラッと足が長く見えるように細工が施されているということもあるそうです。

デパートにある鏡はたとえ話として取り上げましたけれども、私たちの世界では、当てになるものや、私を本当に知らせてくれるものは一つとしてないのかもしれません。

けれども、有難いことが、当たり前ではない普段考えられないことだとしまして、普段考えないことが私自身のことであるならば、言うまでもなく私自身のことを知らされるということが非常に重要であるということです。

しかし、この私の有様にどのような方法で気付いていけばいいのでしょうか?

あなたは愚かです!あなたは地獄のようなドロドロした心があります!といくら人から言われましても、そうですか本当に申し訳ございませんでしたと表面的に口にするだけで、結局心の腹の底からの反省は私の素直ではない心は出来ません。

むしろ、反発の心が湧き上がってくるのではないでしょうか。

いや、私は案外良い人だ!私は犯罪を犯したこともないし、嘘もそんなにつかない・・・などと受け止めるどころか言い訳を口にしてしまいます。

では、どうすれば良いのでしょうか。

それは、本来あるべき尊いお心を知らされることが私の有り様に気付くことの始まりだと思います。

素晴らしいお心に触れるということは本当に大切です。

そうすれば、いちいちあなたは地獄の心がありますよ!などと言われなくても、自ずと私にはそんな尊いお心はどこを探しても一切ありませんでした、むしろ全く真逆に生きていました、となるのです。

ふと、有難い話って何なんだろうかと思ったことから、深いところまで考えるに至りました。

けれども、このような根本的な悩みがとても大切なことだと思います。

これこそが仏教だと思います。

亡くなってから必要な教えではなくて、今の私に必要であり、自分の凝り固められた心や考えがぶち破られて、真実の眼が開かれる。

この仏教というものはなんと完成されているものなのだろうか!とまた改めて実感させられました。

本来あるべき姿やお心を常々お聞かせいただき、私の普段気付けない愚かな部分に出遇わさせていただきましょう。

仏法は鉄砲の反対という言葉がございます。

鉄砲は外側を打つけれど、仏法は自分の腹の底の心を打っていきます。

有難き言葉です。

 

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

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