深過ぎる仏教

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は、仏教がとんでもなく深いものであるということをご理解いただきたいと思います。

仏教=先祖に感謝するもの 仏教=綺麗事を言うもの 仏教=道徳的に良さそうなものを学ぶもの 仏教=とにかく欲が悪い 仏教=支えられてることにとにかく感謝することを勧める 仏教=亡くなった人に手を合わせるもの 自分含め誰かの死の間近に活躍する教え

このように思っている方は仏教の深さをまだまだ理解出来ていません。

偉そうに申し上げて本当に申し訳ございません。

しかし、これは自分自身に言いきかせていることでもありますので、大きいお心でお許しください。

私はお寺に生まれながら、仏教に対して勉強するのが少し遅く、大学を卒業してから浄土真宗の専門学校に通い始めました。

浄土真宗の専門学校で学びを深めるまでの私は仏教に対して、正直上記のようにイメージしていたと思います。

しかし、触れれば触れるほどにそんな薄っぺらい教えではなく、もっともっと深いものだったのです。

浄土真宗の教えは今まさに触れるべき教えなのです。

年を重ねてから仏教を学び始めた方が良いなどという考え方ははっきり申し上げて、全くの誤解です。

そして、命尽きる間際だけ必要なものでもありません。

生活の中で、至る所で、はたらいてくださいます。

本尊とは自分の中での最上の存在(姿や心)です。

それが、浄土真宗によって転ぜられました。

自分というものを一番に考えていた者が、自分を中心にすることを恥じるようになったということです。

自分が常に中心にあった者が、自分を中心にしなくなったしたくなくなったというだけで、それはとんでもなく素晴らしいことだと思いませんか?

ましてや、あなたの喜びを私の喜びと考え、あなたの悲しみを私の悲しみと考えるという慈しみ悲しむ心が本当に素晴らしい姿だと気付かされたのです。

どんな命も年齢性別経験一切を問わず尊い命と見ることができる心が心から素晴らしいと気付かされたのです。

でも私の心は真逆ということにも気付かされました。

人の命が尽きて、本当に悲しい本当につらいということもあれば、人間そのようなケースだけではないでしょう。

大嫌いな人が亡くなるときもあります。

でも、精一杯手を合わせるべきです。

それは、私の都合で自分と人を分け隔てる心に気付かされるからです。

どんな命も尊いとみるお心が目指すべき素晴らしい心であるのに、私の心は地獄のように冷徹でぐちゃぐちゃなのです。

仏の心とはほど遠い私の心が見えてきます。

綺麗事や嘘は一切ありません。

良いことをすることはもちろん大切です。

でも、良いことをどれだけやってもやっても、わたしの心は仏様とは真逆なのです。

それだけ私の心は最悪最低なのです。

極悪最下の人間に極善最上の法が与えられるとはこのことかと知らされました。

人と喧嘩したとき、言い合いになったとき、人から話を聴かせてもらっているとき、食事のとき、掃除するとき・・・どんなときも私にはたらいてくれているのです。

あっと思い、行動を止めることが出来たときもありました。

反対に仏様の心に基づき、行動を起こすこともありました。

このままが最高にもうすでにお恵みの中だったと思えることもありました。

私に関わる人全ては私の仏様と思うこともありました。

反対に嫌いな人や、良くない行動を起こしている人は、実は私の心の一部を具現化させた私の悪の化身であるとも見れました。

私はこんな風に仏教を味わうことが出来ました。

味わえたり味わえなかったりの繰り返しですが、何度も何度も思い返したり、お育ていただいています。

深い深い仏教をたくさんの人が深く味わってほしいと強く思います。

 

南無阿弥陀仏

 

 

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