生きる意味と死ぬ意味

皆様こんにちは。阪急武庫之荘駅より徒歩3分のお寺 真光寺の僧侶、楠木光雲です。

本日は私の心に響いた文章をご紹介したいと思います。

私は行信仏教学院という浄土真宗の学校へ通っていました。その学校に勤めてらっしゃる先生で、とても偉大な方がおられます。その先生のお言葉は私の心に幾度となく感動をあたえてくださいました。

その一部をご紹介(引用)させていただきます。

梯 實圓 『お念仏申す人生を生きる』(自照社 2011年11月2日)引用

 誰でも彼でも死んだら浄土にいくと考えていますが、誰でも彼でも死にさえすれば、浄土にいくというのだったら、教えなんかなかったらいいのです。そうでしょう。教えなんか必要ないじゃないですか。もっとも、それはただ口先だけで、信念もなければ確信もない。だからいざ生死の巌頭に独り立たされたときには、何もかもわからなくなって、ただ絶望するだけの惨めさを味わわねばなりません。

 ところが、皆さんのお家では、子どもたちに、生きることの意味と死ぬことの意味を、しっかりと教えながら、育ててきましたでしょうか。このことを教えるのが、本当の親の仕事ではないですか。親は子どもを生めばいいというものとちがいます。身体を成長させていくだけではないのです。こころを育てなければだめです。教えによって心を育てる、それが本当の教育なのです。教育の本当の主体は親です。学校教育はその延長線上にあるわけで、本当の教育は親がするものなのです。その親がする教育というのは、実際どういうことなのかといったら、子どもに生きることの意味と方向、そして生き方というものを、しっかりと教えることなのです。それが先に生まれてきた、そして子どもを教育する親の責任というものだと思います。

 ところで、生きることはどんな意味を持っているのか。この世で生きていくということはそんなに簡単なことではないですよね。みなさんそれぞれ、言うに言えないようなご苦労をなさった経験もあるだろうし、今なさっている方もいらっしゃるだろうと思います。とくに年を取っていくというのは、大変なことです。年を取ったら、「ああ八十歳、ああそう、もう八十を過ぎられた、それはおめでとうございます」と言われるけれども、あまりおめでたいことではないわけです。結構しんどい話です。相当な覚悟がいるものです。どんな恐ろしいことが起こってくるかわからない。若いときでもそうですが、年を取ったらとくにそうですよ。だいたいが、思いがけないことです。こんなことが起こるとは思わなかった、というようなことが次つぎとおそってくるのが人生です。それを乗り越えていかないと、生きてはいかれません。とくに年をとったら、身心ともに衰えてきます。そこにもってきて、今まで一緒に生きてきた人たちが次つぎと亡くなっていきますから、ふと気がついたら、自分一人だけがぽつんと残っていたということになるかもしれません。結構、人生は過酷なものです。

 そうしますと、生きることに覚悟がいる。”覚”というのは目覚めるということです。”悟”というのは悟るということです。目覚め、悟らなければならないことがある。そうでなければ自分の老後を全うすることはできないのです。死にがけに、別に死にがけでなくてもよいけれど、私は何をしにこの世に生まれてきたのか、いろいろと悲しいことやつらいことやら、時には忘れてしまいたいようないやな思い出もあった、そんな中で何のために生きてきたのか、そんなむなしい思いを抱いて、この世を終わっていくということは惨めです。これは誰のことでもない、自分自身が惨めなのです。なぜそんな生き方をしなければならないのか、なぜそんなに惨めな思いをしなければならないのか、そのとき生きることの意味と方向と、そしてさらに必ず来る死を心豊かに受け容れることができるか否かが問われます。人生はある一定の年まで来たら、あとは自分の責任です。ですから、この惨めさを少なくしていくには、正しい教えによってしっかりと育てられないといけないのです。学校教育なんていうのは、人生の中でいえば、本当の端っこの、ほんの一面でしかありません。

 まあ、そういうことで、死んだらいったいどうなるのだろうかと思いながら、ただ不安と、そしていらだたしさだけが残るということが、我われの現実ではないでしょうか。死ぬことがどんな意味をもっているか、それがわからないのです。こんなことを言ったら、「え、死ぬことに意味があるのですか」と言った人がありました。そうでしょうね、生きることにこそ意味があるけれども、死ぬことには意味がないと、大方の人は考えるはずです。その無意味な死をいやおうなく受け容れなければならないというのだから、これは無惨です。無意味な死を受け容れることができないで、追いつめられて追いこまれていきます。ああでもない、こうでもないと言っているうちに、ふと気がついてみたら「おまえの持ち時間、もう切れたよ、さようなら」と人生が終わっていこうとするのです。そんな死を前にして、しかもなお、これもありがたいご縁ですと、受け容れられるかどうか、このことが問題となってくるのです。つらいことや嫌なことはあったけれども、「私にとってこの一生、ありがたい人生でございました」と、自分の人生に合掌して終わっていければそれでいいのではないですか。金があろうとなかろうと、地位があろうとなかろうと、どんな人生であろうと、自分にとってかけがえのない人生なのだから、そのかけがえのない人生を、むなしい愚痴の中で終わってたまるかと、私は思います。そうなったら、愚痴で終わらない生き方をすればいいではないか。愚痴で終わらないような人生の意味をはっきりと確認すればいいではないか。どんな状況で生きようと、どんなつらいことがあろうと、ありがたいことだったと言えるような、それぐらいの境地を開いた人であるならば、結構な臨終を迎えられるのではないですか。死ぬことを嫌がるよりも、やはり死ぬことにも尊い意味があるということを聞きひらくことが大切だと思います。ただそれがわからない。

 そういうことになりますと、お互いに足腰の達者なうちに、生きることと死ぬことの意味をしっかりと見極めなければならない。そのためには聞くべき教えがあり、そして歩むべき生き方があります。それをきっちりと聞きひらき、歩んでいくということが大事なことなのです。

 

この文章を読んで皆様はどのように感じました?生きることや死ぬことの意味はそう簡単には理解できないかもしれませんが、そのようなことを考え、向き合っていくことが大切であると思いますので、少しずつご一緒に向き合っていきましょう。

本日ご紹介させていただいたお言葉はほんの一部なので、またのご縁に先生のお言葉をご紹介させていただきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

楠木光雲

 

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