お念仏は聞法

皆様こんにちは。尼崎 寺院 真光寺 楠木光雲です。

本日は『香樹院講師語録』という書物の中に記されている香樹院と弘海のやりとりについてお話をさせていただきます。

真宗大谷派の学僧に香樹院徳竜(こうじゅいんとくりゅう)という方がおられました。

ある日、禅僧の弘海という方が香樹院にたずねます。

「法縁はいつもあるというものではないと思います。ご法話がないときは一体どうすれば良いのでしょうか」

それに対し、香樹院は「なんという愚かなことを言うのだ。法話のないときは、今まで聞いたことを思いおこして味わいなさい。法話を聞いているときだけが聞法ではないのだぞ。」とおっしゃられました。

またあるとき、香樹院は「つねにお聖教を拝見しなさい。それが聞法である。またもし世間のことにかかわって、お聖教を拝見できないときには、口につねに南無阿弥陀仏と称えなさい。これまた法を聞くことである。」とおっしゃられました。

そのとき弘海は「法話を聞くことと、お聖教を朗読して、わが耳に聞くことが聞法であるということはわかりますが、わが称える念仏が聞法だというのは、どういうことですか。わが称えて、わが声を聞くことですか」とたずねました。

すると、香樹院は怒ってこのようにおっしゃられました。

「わが称える念仏というものがどこにあるのだ。称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を称えることができるのだ。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来様は、何のために御成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来様のみ心を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを聞くことになるではないか。」

 

参考文献:『妙好人のことば』梯 實圓(法藏館 2008年)

 

自分が勉強して知識を付けたから称える身となったのではなく、阿弥陀様のおはたらきの御蔭により、また絶え間ないお育てによって私たちは称える身とさせていただいたのであります。

香樹院様のお言葉により、南無阿弥陀仏と称えることは阿弥陀様のおはたらきが今まさに届きましたというあらわれであったことをまた改めて味わわせていただきました。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

ホームページ http://sinkouji.main.jp/

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