義なきを義とす

皆様こんにちは。

武庫之荘 浄土真宗 寺院 真光寺の楠木光雲です。
本日は、義なきを義とす(我が計らいをまじえないことを本義とする)というテーマでお話させていただきます。
私はお目にかかったことはないのですが、深川倫雄和上という偉大なお方がおられたそうです。
その深川倫雄和上が残されたお言葉は、度々、色々なところで多くの方々からお聞き致します。
どれもこれも魅力的なお言葉です。

あるとき、この深川倫雄和上が「坊さんはつまらんです。法をわざわざ言葉に変えて人に語らんといけないから。」とおっしゃったそうでございます。
私はこのお言葉を聞かせていただいたとき、とても共感する部分がありました。
僧侶がつまらないとはもちろん思ってはないですが、言葉は不自由だなと思うことがよくあるのです。
伝える(お取り次ぎする)には私たちはほぼ言葉しかツールがありません。
でも、この言葉。
これが非常に厄介なもので、言葉で表現するにはかなり縛りがあると思います。
伝えたい内容、感情、感覚、味わいは言葉にすると何か違う気がするときがあります。
これが全てではないのに、この言葉だけにおさめなければいけないのは正直つらいな、とか、この深く素晴らしい味わいは言葉には出来ないな、などと、思ってしまうときが本当に多いのでございます。
悲しきかな、受け取る人によって大きな誤解を生じてしまったり、100の内の10ぐらいしか伝わっていないのでは?と思うときもあります。
それは、もちろん自分がお取り次ぎをするときだけに限ったことではありません。
というのも、正直、私自身もうまく100パーセント全て受け取れている自信がありません。
浄土真宗の教えを学び始めた頃の「仏様」という言葉と、現在の「仏様」という言葉は、自分自身の中での意味や価値、そして位置付けが全くと言っていいほど違います。
つまり、ほとんど心に響くことなく、すごく大事なことも簡単にスルーしてしまっていた時期が私にもあったということです。
そういうことを強く感じ、思ったときに私の心に届くのはやはり先輩方のお言葉です。
先輩方より、よく「仏法はわからないままにそのまま聴かせていただくのだ」というように度々教えていただいています。
仏様は量り知れません。
輝きを放つ言葉や世界を私というフィルターをかけてしまったら、それはもう私という限定された狭い世界になってしまいます。
そのままに、素直に、私の一切全てをまじえないで、仏様のお言葉をお聴かせいただくことが大切なのでございます。
この意識は、油断すると、すぐ薄れます。
常に意識する!と、自分自身に言い聞かせて注意したいと思います。
皆様もご一緒にそれらを注意しながら、お聴かせいただきましょう。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

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