皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。
本日はどんなときにお念仏やお勤めをするのがいいか?というお話をさせていただきます。
よくこのような方がおられます。
「お墓参りへ行ってきました。大変気持ちが落ち着きました。」
「いつもお勤めをすると気持ちがスッとします」
毎回このようにしかお答えになられないのです。
確かに、そのようなときもございます。
お勤めさせていただいて、本当に良かった、モヤモヤしていたこともお勤めを通して色々整理出来た。
そのように心から思うときも、もちろんございます。
しかし、残念ながら毎日どんなときもお勤めをし、お念仏を心掛けておりますと、そのようなお心持ちではないときが出てくるのではないかと思うのです。
もし、毎度毎度必ず先ほど申し上げましたお心持ちでお勤めをすることが出来ている方は、仏様に近い存在ではないかと思います。
それかもしくは、お勤め(お念仏)をしている時間が極めて短いかのどちらかだと思います。
人間、やはり毎日いつでもどこでもなんどきでもお念仏をしていれば、清らかな心ではないときもあるでしょう。
ものすごくつらいことや悲しいことがあるときは、正直手を合わせるどころか生活をしていることもしんどいというときもあるでしょう。
誰かと喧嘩をしたり、嫌なことがあれば、腹立たしい気持ちのときもあるでしょう。
何を申し上げたいのかといいますと、必ずしも清らかな心でお称えしなければならない、ということはないということをお伝えしたいのです。
反対に、自分勝手な心のとき、腹を立てているとき、つらくてどうしようもなく苦しいとき、嫌いな人が亡くなったとき、ドロドロとして聞いてられないぐらい最悪なことを考えているとき・・・であればあるほど、お念仏申させていただくべきなのです。
そのときこそ、その心と向き合える、お育てをいただくお時間になると思います。
あ!また私の心はこんな状態であったか。
私の心はどこまでも劣悪なものだな。
というように、より一層学びや気付き、深い味わいが得られると思います。
仏様は全てを見抜かれておられるというお言葉もあります。
泥水のように濁りのある心をもっている私なのに、それでも尊い命だと教えてくださるのであります。
自己中心的な心は恥ずべきことであるけれど、なかなかなくすことは難しい。
でも、本来あるべき姿を大切に、自分の心に気付いておくれよ。
というように、どこまでも私に、はたらいてくれているのではないかと思います。
だからこそ、どんなときもお念仏申させていただきながら、そうであったかそうであったかと頷いていくべきだと思います。
喜怒哀楽。いつでもどんなときも、心の中で、口に出して、頭の中で、色んな方法で、お念仏させていただきましょう。
お念仏させていただくときに、私の状態は関係ありません。
いつでもです!
南無阿弥陀仏