皆様こんにちは。武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。
本日は手を合わせるとはどういうことなのか、どういう意味があるのかについて皆様にお伝えさせていただきたいと思います。
何度も申し上げていることで申し訳ございませんが、仏説阿弥陀経の中に池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔という御文がございます。
どんな人もみな、この世に生を受けた誰にも変えることのできないナンバーワンそしてオンリーワンの命、尊い存在。
そのように人やもの、また色んなことに対して見ていくことができる感性、心を浄土という。
そのようにこの御文を通して私たちに伝えてくれています。とても有難い御文であります。
ですが、御文の通りの心を持つことはとても困難なことです。一見、頭では理解出来ますので、そのような心を持つことが簡単に思えるかもしれません。
しかし、実際に生活をする中で本当にそのような心になれるでしょうか。
確かに頭では理解できますし、そのように物事を受け止めていった方がいいのはもちろんわかります。
けれども、どうしてもそのように味わえない自分がどこかにいるのです。
この人は話を聞いてくれるから良い人、反対に、この人は話を聞いてくれないから悪人だ、などとやはり思ってしまうのです。
嫌いな人や苦手な人の意見を素直に聞くことが出来ますでしょうか。正直難しいと思います。
一時的には可能であっても、ふとしたとき出来ていないという場合もあります。
なんとか、その人の想いや言葉の裏に隠されている背景を汲み取ろうと努力しても、なかなか、年がら年中は思うようにはいきません。
周りが見えなくなるぐらい感情的になってしまうこともあるでしょうし、我執というものはちょっとやそっとでは砕けません。
それこそ、煩悩とは臨終の一念にいたるまで、とどまらず、消えず、絶えずという親鸞聖人のお言葉の通り、自己中心的な考え、言動はどうしても、どこまでいっても私から離れてくれないのであります。
そんなドロドロとした地獄のような感性を持った本当の自分と出逢うことこそが、言い方を変えれば、仏様と出逢う、つまり、本当の意味での手を合わせるということなのではないでしょうか。
自分としっかり向き合って、殻を破り、地獄を抉り出して、本当の自分と出逢いましょう。
南無阿弥陀仏
浄土真宗本願寺派 真光寺
兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号
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