三毒と妙薬

皆様こんにちは。武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は阿弥陀様のおはたらきについてお話させていただきます。

【原文】

まづおのおのの、むかしは弥陀のちかひをもしらず、阿弥陀仏をも申さずおはしまし候ひしが、釈迦・弥陀の御方便にもよほされて、いま弥陀のちかひをもききはじめておはします身にて候ふなり。もとは無明の酒に酔ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。

(親鸞聖人御消息、聖典・七三八頁)

【現代語訳】

まずあなた方は、昔は阿弥陀仏の誓願のましますことも知らず、阿弥陀仏の御名を称えることもなく、煩悩に埋もれた日を過ごしておられましたが、釈尊と阿弥陀仏の巧みなお導きのお陰で今日では阿弥陀仏のお誓いを聞き始めておられる身であります。酒に酔いつぶれて本心を失ったものが、毒を毒とも気づかずに好んで食べるように、以前は真実に背いた誤った見解(無明)によって、貧欲(我欲)や、瞋恚(怒り)や、愚痴(おろかさ)といった三毒ばかりを好んでいましたのに、仏のお誓いを聞き始めてからは、酔いが少しずつさめるように、真実に背いた考えの過ちに少しずつ気づくようになり、三毒の煩悩の浅ましさを知らされて、少しずつ煩悩を好まないようになり、阿弥陀仏からいただいた本願の念仏という妙薬を好んで、つねに称える身になっておられるはずです。

 

本願を信じ念仏をする者は、阿弥陀様のおはたらきによって、自分の煩悩だらけの生き方が恥ずかしいと思うようになり、少しでも阿弥陀様の大悲に応答しようと思うようになります。(専門用語でそのようなことを慚愧と言います) 私たちは一気に(突然)、阿弥陀様のおはたらきに対して様々なお味わいが出来るようになるかというと、そんなことはありません。

日々お聴聞を繰り返し、お勤めをして、少しずつ軌道修正していくのであります。

仏縁を大切にし、ほんの少しずつではありますが、毒(煩悩)ではなく南無阿弥陀仏という妙薬を好む生き方をしていきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

ホームページ http://sinkouji.main.jp/

お念仏は聞法

皆様こんにちは。尼崎 寺院 真光寺 楠木光雲です。

本日は『香樹院講師語録』という書物の中に記されている香樹院と弘海のやりとりについてお話をさせていただきます。

真宗大谷派の学僧に香樹院徳竜(こうじゅいんとくりゅう)という方がおられました。

ある日、禅僧の弘海という方が香樹院にたずねます。

「法縁はいつもあるというものではないと思います。ご法話がないときは一体どうすれば良いのでしょうか」

それに対し、香樹院は「なんという愚かなことを言うのだ。法話のないときは、今まで聞いたことを思いおこして味わいなさい。法話を聞いているときだけが聞法ではないのだぞ。」とおっしゃられました。

またあるとき、香樹院は「つねにお聖教を拝見しなさい。それが聞法である。またもし世間のことにかかわって、お聖教を拝見できないときには、口につねに南無阿弥陀仏と称えなさい。これまた法を聞くことである。」とおっしゃられました。

そのとき弘海は「法話を聞くことと、お聖教を朗読して、わが耳に聞くことが聞法であるということはわかりますが、わが称える念仏が聞法だというのは、どういうことですか。わが称えて、わが声を聞くことですか」とたずねました。

すると、香樹院は怒ってこのようにおっしゃられました。

「わが称える念仏というものがどこにあるのだ。称えさせてくださるお方がなくて、この罪悪のわが身が、どうして仏のみ名を称えることができるのだ。称えさせるお方があって、称えさせていただいているお念仏であると聞けば、そもそもこの南無阿弥陀仏を如来様は、何のために御成就あそばされたのか、何のために称えさせておられるのかと、如来様のみ心を思えば、これがすなわち称えるままが、つねに御本願のみこころを聞くことになるではないか。」

 

参考文献:『妙好人のことば』梯 實圓(法藏館 2008年)

 

自分が勉強して知識を付けたから称える身となったのではなく、阿弥陀様のおはたらきの御蔭により、また絶え間ないお育てによって私たちは称える身とさせていただいたのであります。

香樹院様のお言葉により、南無阿弥陀仏と称えることは阿弥陀様のおはたらきが今まさに届きましたというあらわれであったことをまた改めて味わわせていただきました。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

ホームページ http://sinkouji.main.jp/

明日ありと思う心のあだ桜

皆様こんにちは。武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は親鸞聖人が得度されたときのことをお話させていただきます。

親鸞が得度をしようとしたとき、師の慈円は「もう夜なのだから出家は明日にしよう」とおっしゃった。

伝説によると、9歳の親鸞は師慈円に対してこのような歌を詠んだという。

「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

(夜の嵐が吹かないとは限らないこの世であってみれば、桜が明日もあると思うのは間違いです。諸行無常、永遠不変のものはありません。今すぐに出家させてください という意味)

様々なことに対して、感謝せずに当たり前のように生活をしている私たちにはとても考えさせられる歌です。

この歌を思い返して、出来る限り様々なことに感謝できるようになりたいです。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

ホームページ http://sinkouji.main.jp/

御同朋

皆様こんにちは。武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

『歎異抄』という書物にこのようなことが記載されています。

「親鸞 弟子一人ももたずそうろう」

自分の力で念仏者を育て上げたのならば弟子と言えるかもしれないが、阿弥陀様のおはたらきによって念仏者となっているのだから、それをわが弟子だなどというのは思い上がりでしかないと親鸞聖人はおっしゃっているのであります。

浄土真宗では一般信者のことを「檀家」とは言わず、同門の人々という意味で「門徒」と言います。

浄土真宗の教えの素晴らしさを一人でも多くの方に知っていただき、御同朋(念仏の教えを共に歩む人たち)がたくさん増えてほしいと思います。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

ホームページ http://sinkouji.main.jp/