皆様こんにちは。浄土真宗 尼崎 武庫之荘 真光寺 楠木光雲です。
本日は、本当に仏様を拝むとはどういうことなのか?というテーマでお話をさせていただきます。
いきなりですが、嫌われることを覚悟しましてハッキリと申し上げましたら、形だけ手を合わせても、形だけお墓参りに行っても、形だけお勤めをしても無意味ということです。
無意味は少し言い過ぎかもしれませんが、伝わってほしいと強く思いますので、ほぼほぼ無意味と言わさせていただきたいと思います。
100年仏像を拝んでも、ただ単に形を真似ても真に仏様を拝んでいなかったら意味もほとんどないということです。
では、本当の意味で仏様を拝むということはどういう意味なのでしょうか?
仏様を拝むということは、すなわち、ご本尊を自分の中でいただくということだと思います。
ご本尊とは仏像をただ単純に購入したり入手すればいいということではありません。
本当のご本尊の意味は、この世の中のどんなものよりも尊い、素晴らしいと位置付けられるものを自分の中で持つということです。
そのご本尊が、本来は自分というものになってしまっているのです。
しかし、その自分というものをご本尊とせずに、阿弥陀様という存在をご本尊にするということです。
では、阿弥陀様って一体何者なのでしょうか?
阿弥陀様とは、目指すべきお心であり、目指すべきお姿であり、教えであり、全ての命の根源だと思います。
それらを中心に置いて、最上のものと位置付けをして生活をさせていただくのです。
それが本当に仏様を拝むということではないかと思います。
ですから、どなたか大切な方がご往生されて、初七日、二七日、三七日・・・満中陰、百か日、一周忌・・・というようにお勤めをすると思いますが、そこをふまえずに、形だけ手を合わせて、形だけ親戚をよび、形だけ法要を行い、形だけ亡き人を偲び食事をしているのであれば、いま一度本当に手を合わせるとはどのようなことかを考え直した方がいいと思います。
ちょっとトゲトゲしい表現かもしれませんが、ぜひとも貴重なお時間を無駄にせずに、素晴らしい時間にしてほしいのです。
私も含めて我々人間は、形だけ仏様を拝んでしまっている傾向があるのかもしれません。
今一度、本当に仏様を拝むということはどういうことなのか?
しっかりと踏まえた上で、お勤めなどさせていただきたいものでございます。
南無阿弥陀仏