悲しみが深ければ深いほどに

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は、最近心に響いた言葉をご紹介したいと思います。

二〇〇八年に七八歳で御往生された真宗大谷派 住職 宮城顗(みやぎ・しずか)先生のお言葉です。

「人を失った悲しみの深さは、生前にその人からわが身が受けていた贈りものの大きさであった」

この言葉は共感度がとても高く、本当に有り難い言葉だと思いました。

大切な人が御往生されるということは、おめでたいことであるとは到底思えずに、深い悲しみの中に入ってしまいます。

しかし、宮城先生のお言葉にもありますように、悲しみが深ければ深いほどに生前にその方からいただいていた贈り物が大きかったのだということだと思います。

私も大切な人が往生したとき、信じられないぐらいつらかったです。

しかし、それだけ自分はいろんな贈り物をいただいていたのだと思いました。

人、一人の影響力というのは本当にはかり知れません。

一緒にいたときと一緒にいないときであれば、天と地ほど違います。

全ての物事の見え方が変わりそうなぐらい、影響を与えているということですね。

一緒にいたら安心だったことも、一緒にいないことで、全て不安に思える、そんなこともあります。

でも、そんな物凄く大切な人が亡くなっても、やはり前を向いて、自分の足でしっかりと歩んでいかなければなりません。

ですから、たくさんいただいた贈り物に対して、まずしっかりと感謝して、そのご恩に対して出来る限りの恩返しをしていくべきだと思います。

言うまでもなく、大きなご恩は返しても返しても返しきれないでしょう。

でもそれでも、そのご恩に対して何もせずにはおれないというのが他力の教えのパワーではないかと思います。

それぞれのやり方でご恩報謝の生活を共々にさせていただきましょう。

私は、ご恩報謝のお念仏、布教活動、一生懸命この世を生き抜いていく、自分の周りにいる大切な人に出来る限りのことをさせていただく・・・まだまだあるでしょうけれど、今出来るご恩報謝はこのあたりかな?と思っております。

南無阿弥陀仏


切実な願い

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は切実な願いを申し上げたいと思います。

それは、形だけのお勤めや形だけのお念仏になってほしくないということです。

手を合わせる姿は言うまでもなく有り難い姿だと思います。

もちろん有り難いのですが、周りの人に格好をつけるためにするお念仏やお勤めは有り難い姿とは言えません。

何もわからなくても手を合わせて南無阿弥陀仏と称えましょう、ということをおっしゃられる人もいると思います。

しかし、果たしてそれで何か変化や成長はありましたでしょうか?

やはり、貴重なお時間を使ってお勤めをするからには、色んな気付きや味わいがあってほしいです。

極論お仏壇に手を合わせていなくても、本当の意味で手を合わせることができているのであれば、お仏壇の前で手を合わせなくてもいいと思います。

私が一番自分勝手で自己中心的な生き方をしていた、と気付かされていくということが、本当に手を合わせるということではないでしょうか?

そこに気付かされる手段は、仏法以外にありえないのです。

例えば、足を踏まれたら足を踏んだ人に腹が立つと思います。

でも、その足をその場所に置いた私が悪かった、という考え方になれるかどうかです。

みんな、自分が一番です。

でも、自分をいっときでも捨てさせてくださる教えは有り難いと思います。

ずっと自分を捨てられるわけではないです。

でも、一瞬でも私は私を中心にすることを恥じることが出来るのは素晴らしいことではないでしょうか?

こんなことを味わえるものは仏法以外にないと思います。

1人でも多くの方が形式的ではなく、本当の意味で手を合わせてほしいと、切実に願います。

私もその1人(形式ばかりではなく本当の意味で手を合わせる)になりたいと思います。

お勤めの機会がどれだけ増えても、形だけにならず、本当の意味で手を合わせたいと思います。

南無阿弥陀仏