願い

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 本願寺派 真光寺の楠木光雲と申します。

突然ですが、流れ星が流れたらあなたは何を願いますか?

流れ星が流れる時間は一瞬ですが、パッと頭によぎるのはおそらく自分のことではないかと思います。

流星群であれば、たっぷり考える暇がありますので、他者のことを願った方がいいのではないか?などと少し思うかもしれないですが、考える時間が短いほど、どうしても自分のことを思ってしまいます。

もし、その短い間にも、人のために願った人がいたらその人は素晴らしい方だと思います。

彼女とうまくいきますように。

家庭がどうかうまくいきますように。

というのも、一見他者を願っているように感じますが、よく考えてみれば自分に関係していることのように思います。

自分以外の人が幸せでありますようにと瞬時に願える人は本当に有難いと思います。

浄土真宗は自分の願いを聴いていただく宗教ではなく、阿弥陀様の願いをお聴かせいただく宗教です。

阿弥陀様にどのように願われているのか?

浄土真宗の言葉で、本願というのですが、色んな解釈が出来ると思います。

あなたをそのまま救う、南無阿弥陀仏と称えさせて、足さず引かず、そのまま救いたいのです。

お願いだから、あなたを救わせてください。

このように願ってくださっているのだと味わわせていただいております。

何がどう救われているのか?

それは、教えがたった今この瞬間瞬間にすでに届けられていることです。

そして。量り知れない命の中にいることです。

摂め取って捨てたまわずというように、阿弥陀様のおはたらきの真っ只中にいることです。

救われるってどういうことか?

なかなか語り切れないのでもどかしいのですが、真実の教えと量り知れない命が今この私に届いていることかな?と未熟ながらも感謝させていただいております。

南無阿弥陀仏

一周まわってやっぱり親の有難さ

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 本願寺派 真光寺の楠木光雲と申します。

本日は、一周まわって、親はやっぱり有難いということをテーマにお話をさせていただきます。

浄土真宗を大事にしておられる方であれば、親子の話は耳にたこができるぐらい聴いてきたはずです。

しかし、それでも私は親の話をお聴かせいただきたい(味わわせていただきたい)、そして話し続けていきたいと強く思います。

仏様は量り知れない存在ですから、言うまでもなく、私たちの世界のものでたとえることは到底できません。

でも、この私たちの世界で、唯一、仏様のことをたとえることができるものがあるとしたら、親ぐらいだと言われております。

ですから、親子の話は正直、皆様聴き飽きたぐらいお寺などで聴いてきたはずです。

最近、親が子を傷つけるニュースなどが出てきてしまい、親子のたとえが出来ない時代になってしまいましたし、正直少ししづらい現実があります。

しかし、私はそれでも親子の話が好きですし、ぜひこれからもさせていただきたいと思います。

時代など重々承知の上で、一周回って、やっぱり親は有難いということを感じます。

私は幸いにも、本当に有難い父親と母親に産んでいただきました。

ある尊敬する先生が、最高の親孝行は、この世に生まれてきて本当に良かったですとならせていただくことであり、それをご両親に伝えることではないかとおっしゃられました。

あなたが生まれてきてくれて本当に良かった、ありがとうね、と私が知らないときから自分の両親はずっと声をかけ、ずっと思い続けてくれていた(現在進行形で思い続けてくれている)のだと思います。

ときに、その親心を忘れてしまって、なんでこんな目にあわないといけないのだ、なんでこんな嫌なことが起こるんだ、私なんか生まれて来なければ良かった、頼んでもないのになんで私を産んだんだと思うこともありました。

でも、それでも、私の父と母はそんな私に、生まれてきてくれてありがとう、あなたがいてくれてよかったと思ってくれていると思います。

つまり、私は、親心に背き、そのあたたかい心の中にありながら、その御恩を無視し続けてきたのだと思います。

でも、そんな無視し続けてきたあたたかい親心に背く私であっても、父と母は見捨てないで、あなたはどんなあなたであっても本当にいてくれるだけで嬉しいんだよと私のことを思い続けてくれたと思います。

実際に具体的な言葉を聞いていなくても、そういうことは間違いなく伝わります。

曖昧なことではありません。

誰がなんと言おうと私はそう確信しております。

私のことを願い、量り知れないあたたかい想いで育ててくれたことに感謝致します。

そのように思えたのは、間違いなく浄土真宗の教えに遇わせていただいて、仏様の御恩を知ったからなのだと思います。

一番身近にいる有難い人の御恩を、そのまんま有難い御恩と受け止めることがほんの少しだけでも出来たことを有難く思います。

実際の親、それから親様といわれている仏様のいつも変わらないあたたかいお心を、これからも、そのまま有り難く受け止めることが出来れば嬉しいです。

南無阿弥陀仏

自分なりの言葉で話せますか?

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

突然ですが、質問させてください。

あなたは何故、手を合わせるのですか?

あなたは何故、浄土真宗の御門徒様なのですか?

あなたは何故、南無阿弥陀仏とお称えするのですか?

仏様を尊いと仰ぎ、手を合わせている姿を見せる。

後ろ姿を後世に伝えていくということは大変素晴らしいことです。

しかし、それだけでは伝わらない時代になりました。

やはり、自分なりの言葉で何故なのかということを話せた方がいいと思います。

「うちは代々浄土真宗なのだから、あなたも大切にしなさい」

「よくわからないけれど、有難いから手を合わせて南無阿弥陀仏とお称えしなさい」

では、なかなか納得してもらえません。

自分なりの言葉で「こういう意味を持っているから有難いのだよ」「私はこういう存在だから、浄土真宗でなくてはならないのだよ」という風に話せるようになりましょう。

まだそれが難しいのであれば、そういう風になっていけるように共々に考え、学び、味わわさせていただきましょう。

南無阿弥陀仏

お彼岸

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日も皆様と共々に味わわさせていただきたいと思います。

よろしくお願い致します。

本日は、お彼岸って何なのだろう?ということをテーマにお話しさせていただきます。

彼岸(ひがん)とは、彼の岸と訳すことが出来ます。

此岸(しがん)とは、此の岸と訳すことが出来ます。

つまりは、仏教において、彼岸とは浄土を表しており、此岸とは私たちの世界(娑婆世界といいます)を表しております。

ここで本当に気を付けたいことがあります。

それは、彼の岸ということによって、浄土という世界が遠く離れた架空のグランドのように思ってしまうことです。

そう解釈すると、亡くなってから必要なもの、もしくは、亡くなる少し手前に必要なものとなり、今は全く必要のないものと考えてしまいます。

そうであれば、健康体の若い人は必要ないものとなりますし、歳を重ねておられる方でも、まだ先のことであればいいのではないか?と後回しにする人も出てきます。

実は、浄土とはとんでもなくたくさんの意味が込められている世界なのです。

遠く離れた架空のグランドではないのです。

浄土という世界は、もちろん全ての生きとしいける者が還る場所と思ってくださっていいと思います。

しかし、それだけの意味ではなく、清らかな心や感性、簡単に申し上げると、教えというものが意味合いに含まれているのだと私は味わわさせていただいております。

浄土と言ったときに、全ての生きとしいける者が還る場所(命の根源)という意味合いと、清らかで本来あるべき姿や心や感性、教えという意味合いとの両方が集約しているとお考えいただければ有難いです。

ですから、お勤めは年齢や性別、経験の有無を問わず、必要であり、大切なものだと言い切ることが出来ます。

お勤めをしたとき、教え(慈悲心や親鸞聖人がおっしゃられている他力・・・あまりにありすぎて書ききれませんので省略します。)とは反している自分、本来あるべき心ではない自分に気付かされます。

気付かされるということは、すなわち、同時に行動が変わるということです。

気付かされて、そのまま放置する人はいません。

少なからず、気付かされたら行動は小さいながりにせよ、変わります。

変わらないということは、気付かされていないということです。

教えを大切に出来ていないということです。

浄土という存在に教えということが詰め込まれていることを味わい、その浄土を大切に尊いものとしたとき、すなわちそれは自分の愚かさを知ることとイコールであるということです。

浄土を大切にすることと同時に自分の姿があぶり出される。あぶり出されると同時に行動が変わる。

ということです。

切り離して考えがちですが、それらは全部同時だと思います。

浄土とは離れた架空のグランドではなく、今まさに私に届いているものと言えます。

浄土真宗は浄土を真実と説く宗教ですから、浄土に関してもっともっと味わっていきたいと思います。

南無阿弥陀仏

自力 他力

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は自力、他力ということをテーマに少し味わわさせていただきたいと思います。

以前に「他力というは如来の本願力なり」という記事をアップしました。

まだご覧になっていない方はぜひご覧いただければ幸いです。

その記事の補足といいますか、続きといいますか、申し上げ切れていない部分を本日はもう少しだけ触れていきたいと思います。

自力、他力という言葉は、その記事でも申し上げましたが、自分の努力ということに当てはめて考えるものではありません。

自力については親鸞聖人の書物『一念多念証文』に書いてくださっております。

「自力というのは、わが身をたのみとし、わが心をたのみとすることであり、自分の力を頼って行にはげみ、自分がつくるさまざまな善を頼りにする人のことである。」(一念多念証文)

他力については親鸞聖人の書物『教行信証』に書いてくださっております。

「他力というは、如来の本願力なり」(教行信証)

どれだけ努力をしていても自力は自力ですし、どれだけ努力していなくても他力は他力なのです。

自力は阿弥陀様のはたらきを疑い、自分の考えや能力を拠りどころにすることで、他力は阿弥陀様のはたらきを素直に受け入れ、阿弥陀様のはたらきを人生の拠りどころにすることです。

ですから、目の前のことを一生懸命努力して行うことは、もちろん素晴らしいことです。

全く否定しておりませんし、他力の教えを大事にしている人も精一杯努力していいのです。

自力や他力という言葉は、阿弥陀様のはたらきに対して使う言葉です。

努力をしようがしまいが、阿弥陀様のはたらきに対して受け入れようとせずに自分を拠りどころにするのは自力であり、努力をしようがしまいが、阿弥陀様のはたらきに対して受け入れ阿弥陀様のはたらきを拠りどころにすれば他力です。

南無阿弥陀仏


3月7日予定通りに行います

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 寺院 真光寺 楠木光雲です。

3月7日お経を一緒に読みましょうの会は、予定通りに行います。

【場所】真光寺 本堂にて

【時間】16時から17時ぐらい

各々出来る限りの予防をして、ぜひご参加いただきたいと思います。

よろしくお願い致します。

南無阿弥陀仏

他力というは如来の本願力なり

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

さっそく本題に入らせていただきます。

浄土真宗は他力の教えです。

これは、皆様よくご存知だと思います。

しかし、この他力ということを深く深く考えたことがありますでしょうか?

詳しく説明出来ますでしょうか?

なかなか難しいですね。

浄土真宗の根幹でありますが、私も正直少し難しさを感じます。

でも、一番大事なことであるのは間違いありません。

少し共々に考えさせていただきましょう。

耳にたこができるぐらい聴いておられると思いますが、自力他力ということを私たちの努力ということに当てはめてはなりません。

もし、そのような意味合いで自力や他力を使ってしまうと、自力は一生懸命自分の力で努力する勤勉な生き方を表し、他力は他人任せでぐーたらな怠け者の生き方を表します。

とんでもない誤解です。

どれほど努力していても、一生懸命に何かをやっていても、他力は他力なのです。

もちろん自力に関してもそうです。

努力していなくても自力は自力です。

有名な言葉に「他力というは如来の本願力なり」という言葉があります。

他力は阿弥陀如来様の本願のはたらきであるとおっしゃられているわけです。

はたらき(パワー(力))は変化を生じさせます。

変化がなければ、はたらき(パワー(力))は届いていないということです。

はたらきが私たちに届いているということは、私たちに何らかの変化が生じているわけですね。

これは、結構難易度が高いと私は思っております。

何故なら、その変化は他者から見てわかりづらいからです。

手を合わせなかった私が手を合わせてお念仏をお称えするようになった。

仏様の眼を通して自己内観するようになった。

煩悩だらけの私と気付かされ、今までの価値観とは違う新たな価値観を持った。

・・・などという変化は、他者も自分も気付きづらいのではないかと思います。

しかし、それは大きな大きな変化だと私は思います。

阿弥陀様の本願のはたらきと申し上げましたが、阿弥陀様の本願とは?何なのでしょうか?

本願とは、根本の願い、ご本意の願い、ご本心の願いということでしょう。

どんな願いか?といいますと、

どうしても、あなたをそのまま救いたいのですという願いです。

阿弥陀様とは?

智慧無量、慈悲無量です。

教えであり、お心でもあり、命でもあります。

色々な言い方が出来ます。

真実とか、真如とか・・・無分別智とか

称えることも説くことも思議することも出来ないのでやはり言葉にするのが難しいですね。

とにかく今申し上げました阿弥陀様が私のことをどうしてもそのまま救いたいんだ!と願ってくださっているのです。

そのはたらき(力)のことを如来の本願力というそうです。

他力は私たちの努力をどうこういうのではなくて、如来の本願力であるということです。

自力はその如来の本願力を疑い、自分の能力や考えや生き方を拠り所にすることです。

他力は如来の本願力をそのまま有難いことと受け止めることです。

私の考えや生き方、常識は頼れるものでありません。

そして、お念仏や信心は自分が作ったものでも、作るものでもありません。

お念仏も如来様から賜ったもの。信心も私が如来を信じる心ではなく、如来様をただただ受け入れている状態、状況のこと。

色んなご縁も如来様からの賜りもの。

念仏者に仕上げていただいているのも自分の力ではなく、如来様のお力です。

全ては自分ではなく、如より来たる如来様あってのことです。

南無阿弥陀仏