皆様こんにちは。武庫之荘 真光寺 楠木光雲です。
あるご住職からお聞きしたお話を通して、共に色んなことを味わってまいりたいと思います。
あるご住職が田舎道を車で色々な場所にお参りに行ったときのお話です。
一軒目二軒目と順調にいっていたのですが、三軒目四軒目とお話が盛り上がってしまい、時間がおしてしまいます。
五軒目にお参りに行く道中、少し時間を気にしながら車を走らせていると、急に横から車が飛び出してきました。
ギギーっと急ブレーキをかけ、先を譲ります。
タイミング悪く一車線だったので、その飛び出してきた車の後ろについて走ることになりました。
40キロ制限の道路だったのですが、その車はなんと10キロぐらいでゆっくり走るのです。
安全で良いのではありますが、とにかく急いでいますので、だんだんと苛立ち始めます。
何故横から入ってくるときは猛スピードなのに、自分の前を走るときはゆっくりなのだろうかとだんだんイライラする気持ちが増してくるのでした。
しかし、ご住職はあることを思い出します。
ここから5キロ先は大きな道路になり、車線が増えるので、そこで車線変更をし、この車を追い抜かしていこうと思ったのです。
5キロは自分との闘いです。
イライラする気持ちを抑え、5キロさえ乗り切れば大丈夫だというように自分に言い聞かせました。
なんとか感情を抑え、5キロ走り切りました。
そして、やっとの思いで車線を変更し、アクセルを踏んでスピードを上げていこうと思ったその瞬間、遥か前方に赤いランプが見えたのです。
まさかとは思いましたが、警察の方がスピード違反の取り締まりをしているではありませんか。
一瞬ドキッとしましたが、10キロで走ってきていたため、お咎めなしでした。
このご住職は初め、前の車の方に対してとても苛立ちを感じていました。
しかし最後には、この前の車がいたからこそ「捕まらずにすみました、ありがとうございます」というような感謝の感情に一変するのでした。
このように、状況や環境、また感情によってすぐに心がコロッと変わってしまう自己中心的な心が煩悩であります。
煩悩とは一体何のかということが分かりやすいお話だったので、皆様にもお伝えさせていただきました。
このお話をお聞きして、改めて煩悩だらけの自分ということを味わせていただきました。
煩悩というものは本当に厄介なものでございます。
一刻の間消せたと思っても、時間が経てばまたすぐにあらわれます。
いや、消せたと思うこと自体思い上がりなのでしょう。
修行をして、精神統一して心を鎮めて消滅できる代物ではありません。
あの親鸞聖人や法然聖人ですら、煩悩にはお手上げであるとおっしゃられたそうです。
親鸞聖人や法然聖人は煩悩など限りなく無かったでしょう。
生きる仏様であると思われた方も当然いらっしゃったと思います。
しかし、そんな仏様のような方は自身のことを煩悩が消せた者であるとは絶対に発言しないと思います。
自分自身のことを凄まじい内観能力で見つめ、謙虚に生きておられたのです。
この方々にとっては謙虚でもなんでもないかもしれません。
心の底から自分自身のことを煩悩だらけであると思ったのですから。
つまり、煩悩というものは諦めてはなりませんが、少し努力したから消せるなどと思ってはならないのです。
煩悩とは字の如く、自己中心的な心を悩み煩うことでしょう。
煩悩を自覚し、悩み煩っているのであれば言動は慎まれるはずです。
その人の言動が変わっていないのであれば、それはまだ煩悩を知識として知っただけなのだということです。
自分で記事にしていて心が痛くなります。
何故なら、私自身、煩悩を悩み煩っているかというとそうではないからです。
悲観している訳ではなく、煩悩を本当に悩み、恥ずかしいと思うこと自体が極めて難しいということなのです。
他の記事で何度も申し上げていることですが、僧侶になったから偉いのではないのです。
はっきり申し上げますが、僧侶は煩悩がない素晴らしい人ではありません。
素晴らしい教えをそのままに伝えているのが僧侶です。
教えを取り次ぐから、僧侶の背景にある教えに頭を下げていただく機会があるということです。
一般的なご家庭の方に僧侶と聞くとどのようなことをイメージしますかとお聞きしますと、このような答えが返ってきます。
悟りを開いている。欲や煩悩がない。とにかくニコニコしていて優しい人。
とんでもありません。
僧侶のことを下げた発言であると誤解を招いてしまうかもしれませんが、どんな素晴らしい役職についていても僧侶になったとしても、知識が豊富であっても、煩悩は必ず持っています。
言い切っていいと思います。
しかし、自身の煩悩とは何なのか自身はどういう存在なのかなど、自身のことを内観することに関しては一般的な方々よりも僧侶の方が、ご縁が多いと思います。
教えとはどういうものなのか、何故私たちはその教えを学ぶべきなのかなどを理解させていただいて、そのまま間違えることなく伝えるのが僧侶の使命であります。
ですから、私たちはお取次ぎというのです。
法話は僧侶が伝えるのではないのです。
僧侶は仏というお心から賜わる仏縁を取り次がせていただきながら、自分自身もお聞かせいただいているのです。
正確に言うと法話を僧侶共々みなでお味わいさせていただくということです。
檀家様と言わずに門徒様と申し上げているのも、皆様のことを共にお味わいさせていただく同朋と見ているからでしょう。
世間では敷居が高いと言われている寺院でありますが、同じ目線で共に進んでまいりたいと思っています。
本日は煩悩ということに視点を当て、お味わいさせていただきました。
南無阿弥陀仏
浄土真宗本願寺派 真光寺
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