四門出遊

皆様こんにちは。浄土真宗  尼崎  武庫之荘  真光寺  楠木光雲です。

本日は仏教で大事にされています「四門出遊」というお釈迦様のエピソードを通してお味わいさせていただきたいと思います。

お釈迦様は正確に申しますと、釈迦族の王様なので、名前は「釈迦」ではありません。

ゴータマ  シッダールタという名前だったそうです。

これから、お釈迦様のことをシッダールタと記載させていただきます。

釈迦族の王様であるシッダールタは衣食住に関しては何不自由ない暮らしをしておりました。

あるとき、シッダールタはお城の外にお出かけされます。

まずは東の門から出られます。

シッダールタは一人の老人を見つけます。

そして、付き人に聞きます。

「あの腰の曲がった体を痛めている人はなんだ??」

付き人は答えます。

「あれは年老いたご老人でして、どんな人もあのように年を重ね、体が衰えていくのです。もちろんあなたも年をとり、あのようになっていくのですよ。」

シッダールタはショックを受けます。

ショックを受けたシッダールタはお城に帰ってきます。

東門はやめて次は南門から出ようと決意します。

シッダールタは南門から出ます。

すると、そこには咳き込んで苦しそうにしている人がいました。

シッダールタは付き人に聞きます。

「あの苦しそうにしている人はなんだ??」

付き人は答えます。

「あれは、病人です。私たちは病気というものをし、体が蝕まれていくのです。あなたも病気になり、辛い思いをするときがくるでしょう。」

シッダールタはまたショックを受け、お城に帰ります。

二度もショックを受けたシッダールタでありましたが、次こそはと思い

、今度は西門から出ます。

西門を出ますと、シッダールタは棺桶に入った目を閉じている人を見つけます。

シッダールタはまた付き人に聞きます。

「あの目を閉じて箱に入っている者はなんだ??」

付き人は答えます。

「あれは死者です。もう目を開けることはありません。物を言うことも出来ません。」

シッダールタはまたもやショックを受け、お城に帰ります。

すっかりショックを受けてしまい、落ち込んでいるシッダールタは最後に、残されている唯一の門である北門から出ます。

そのときにシッダールタは一人の僧侶に出逢います。

その僧侶の姿はといいますと、一挙手一投足がなんとも静かでとても清らかなものだったのです。

他の方が見たらどうだったのかわかりませんが、シッダールタの目にはそのように尊い姿に見えたのでしょう。

そして、シッダールタはその姿を見たことをきっかけに老病死を越えたお心を求め、出家の道を歩むことを決意します。

これが「四門出遊」です。

私たちは誰しもが生まれたことにより苦しみを抱きます。

老いていき、病気になり、やがてはたった一人、裸で命を終えていかねばなりません。

それを全て不幸と見ていくと、私たちは生まれてきたことも不幸、人生を歩んでいくことも不幸、命終えることも不幸となってしまいます。

もちろんつらいことや嫌なこともたくさんあるかもしれません。

しかし、阿弥陀様のおはたらきによって少しずつ知らされるのです。

素晴らしい尊い命を授かり、どんどんと年を重ねることで感性が花開いていく。当たり前に過ごせていることが本当の驚きである。命尽きるときは自分の人生に手を合わせて、最高の人生をたくさんの御恵みの中で過ごすことが出来ました。最高の旅をさせていただき有難う御座います。そして、これからは人々の幸せを一番に考えていく仏として活動し続けていきます・・・。

というように、不幸の人生ではなく、光り輝く充実した最高の人生だと悦びを感じることが出来る世界が広がっているです。

そんな世界を学ばさせていただいていると思うと、純粋に有難いなと思うのです。

本来あるべき姿やお心を知らされるということは非常に大切なことだと思います。

自分だけの考えで生きていれば決して気付くことが出来なかったことだと思います。

本日は「四門出遊」を通して、生老病死、そしてそれを越えた世界や教え、お心を味わわさせていただきました。

南無阿弥陀仏

親鸞聖人のカッコよさ

皆様こんにちは。浄土真宗 武庫之荘 寺院 真光寺 楠木光雲です。

本日は、親鸞聖人のかっこいい所を皆様にお届けしたいと思います。

親鸞聖人がお書きになられました『顕浄土真実教行証文類』という書物に次の御文があります。

「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」

(ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。)

親鸞聖人は、阿弥陀様がこの私を目当てにおはたらきくださっていることに対して、深く感動し、感謝し、心からお慶びになられているのです。

次に、もう一つ『歎異抄』という書物に記載されている内容もご紹介させていただきたいと思います。

『歎異抄』という書物には唯円坊と親鸞聖人のやりとりが記載されています。

唯円坊は親鸞聖人のお弟子様です。

つまり、師弟のやり取りが描かれているのです。

あるとき、唯円坊は親鸞聖人に対して言いました。

「私は毎日お念仏を大切にし、お勤めをさせていただいております。しかし、正直に申し上げますと、お念仏をしていても、心躍るような慶びを感じられないのです。」

親鸞聖人は唯円坊に答えます。

「そうか。それは本当につらい想いをしたな。よく正直に心の内を言ってくれたね。しかし、唯円よ、実は私もそうなのだ。慶べない心のときもある。けれども、そのように慶ぶべきことを慶べない私に焦点が当たっていると思うのだ。そんな私たちだからこそ阿弥陀様の救いの目当てなのだよ。」

サラッとこのやり取りを書かせていただきましたが、よく考えてみればこのやり取り、本当に凄いことなのです。

普通、弟子がそうようなことを言ったならば、師匠は御立腹になられるはずです。

「何をいっているんだ!もっと心を改めなさい!」と。

でも、そのようにしなかったのは、阿弥陀様のおはたらきは私の心の安定度や心の善し悪しを条件にしないからです。

そして、さらに申し上げますと、親鸞聖人は唯円坊のために目線を合わせられたのです。

親鸞聖人はおそらく阿弥陀様のお救いに対して心からお慶びになられていたはずです。

先ほどの『顕浄土真実教行証文類』の御文にもご本人がお慶びになられていることがしっかりと表れています。

では、何故わざわざ「実は私もそうなのだ」と言ったのでしょうか?

それは、親鸞聖人なりの唯円坊に対する優しさといいますか、気遣いだったのではないでしょうか。

信頼している師匠に、思い切ってカミングアウトしてくれた唯円坊。

その一生懸命正直に伝えてくれた唯円坊が一番求めていた言葉は、一喝することではなく、私も同じ気持ちだよ、だったのではないかと思います。

師匠から共感の言葉をもらったときの心のあたたかさは言うまでもありません。

親鸞聖人はそのように、カッコいいお方なのです。

そんなカッコいいお方のお姿を今年も真似ば(真似をし学ぶこと)させていただきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏

 

 

本日16時から 真光寺本堂にて

皆様こんにちは。浄土真宗 武庫之荘 寺院 真光寺 楠木光雲です。

本日、【お経を一緒に読みましょう】という行事を行います。

 

【お経を一緒に読みましょう!】

浄土真宗でよく読まれるお経を、一人で読めるように一緒に練習します。

どなたでもお気軽にお越しください。(御門徒様ではなくても、もちろんお越しください。お経を読んでみたい方であれば、ぜひお気軽に足を運んでください。)

【日時】2019年1月7日(月曜日)

16時から約1時間

【場所】真光寺 本堂にて

【持ち物】筆記用具 お経本(324円で購入も可能)

浄土真宗の正しいお作法やみ教えなど・・・皆様にとって人生を歩んでいくうえで大切なこと、必要不可欠なことを一緒に学び、味わわさせていただきたいと思います。

ぜひ、お気軽にお越しくださいませ。

2019年 ご挨拶

皆様明けましておめでとうございます。旧年中は大変お世話になりました。
本年も真光寺一同、精一杯力を合わせて精進して参りますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

昨年もたくさんのご縁を賜りました。

学びや味わいを深められることは有難いことですし、何よりも純粋に楽しいことだと改めて思いました。

今まで感じられなかったことが感じられるようになるということは、それだけ変化が起こっているということです。

煩悩がなくなることはなくても、阿弥陀様のおはたらきを慶ばせていただける身とならせていただけたことは本当に素晴らしいことだと思うのです。

他者から見てあまり変化がなかったとしても、天と地ほど違いがあります。

主体が常に自分にあった、そしてそのことを恥じることも気付くこともなかった者が、主体は阿弥陀様に焦点を当てるべきだと気付く、これは劇的な変化であり、成長であります。

今年もたくさんご縁をいただき、ご縁やお恵みの中に自分がもうすでにいるのだということを感謝し、慶ばせていただこうと思います。

今年も皆様とお会いし、共にお勤めをしたり、お味わい出来ることを心より楽しみにしています。

南無阿弥陀仏