報恩講法要の意義

皆様こんにちは。武庫之荘 寺院 真光寺の僧侶、楠木光雲です。

報恩講法要まであと7日となりました。本日は報恩講法要を行う意義についてご説明させていただきます。

 

【報恩講法要】

本願寺第三世覚如上人は御歳25歳の時、宗祖親鸞聖人の33回忌法要を大谷の祖廟においておつとめになり、この時、みずから作成した『報恩講式(私記)』という、聖人の遺徳を讃える文章を祖影前で朗読されました。これが報恩講法要のはじまりであります。報恩とは、親鸞聖人の御恩徳に報いること、講とは講義すること、あるいはその講義に集まる人々のことを意味します。

以後、本願寺はもとより、浄土真宗の一般の寺院、惣(村)、一軒一軒の門徒の家庭でも、毎年の親鸞聖人の御命日の前後にこれをつとめることが、今日でも広く行われております。

読経は親鸞聖人がお作りになった「正信念仏偈」を中心とし、法話、会食その他さまざまな行事が寺院や家庭でも行われますが、本願寺では聖人の御命日11月28日を、明治以来、新暦にあらためて、これを1月16日のこととし、9日逮夜(午後)から16日日中(正午)まで、御影堂において一週間の法要が行われ、全国から多数の門信徒が参詣します。本願寺では、これに先立って8日の晨朝勤行がすむと、内陣の巻障子をしめて祖像を北余間にお移しし、御門徒みずから、湯で祖像を拭われる儀式が行われます。これを特に大御身と呼んでいます。

 

『浄土真宗本願寺派入門聖典』 豊原大成(鎌倉新書 2001年6月1日)より引用

 

このように、報恩講は宗祖親鸞聖人に感謝し、聖人がお作りになられた正信偈(浄土真宗の全てをあらわしていると言われているお経)を称え、浄土真宗のみ教えにふれる一つのご縁であります。

本願寺においては1月9日から16日まで報恩講法要を行っておりますが、真光寺ではたくさんの方々に来ていただきたいという願いからお越しいただきやすい日時にさせていただいております。

皆様、11月7日はぜひ真光寺にお参りくださいませ。真光寺一同、心よりお待ちしております。

 

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分 

楠木光雲

 

生きる意味と死ぬ意味

皆様こんにちは。阪急武庫之荘駅より徒歩3分のお寺 真光寺の僧侶、楠木光雲です。

本日は私の心に響いた文章をご紹介したいと思います。

私は行信仏教学院という浄土真宗の学校へ通っていました。その学校に勤めてらっしゃる先生で、とても偉大な方がおられます。その先生のお言葉は私の心に幾度となく感動をあたえてくださいました。

その一部をご紹介(引用)させていただきます。

梯 實圓 『お念仏申す人生を生きる』(自照社 2011年11月2日)引用

 誰でも彼でも死んだら浄土にいくと考えていますが、誰でも彼でも死にさえすれば、浄土にいくというのだったら、教えなんかなかったらいいのです。そうでしょう。教えなんか必要ないじゃないですか。もっとも、それはただ口先だけで、信念もなければ確信もない。だからいざ生死の巌頭に独り立たされたときには、何もかもわからなくなって、ただ絶望するだけの惨めさを味わわねばなりません。

 ところが、皆さんのお家では、子どもたちに、生きることの意味と死ぬことの意味を、しっかりと教えながら、育ててきましたでしょうか。このことを教えるのが、本当の親の仕事ではないですか。親は子どもを生めばいいというものとちがいます。身体を成長させていくだけではないのです。こころを育てなければだめです。教えによって心を育てる、それが本当の教育なのです。教育の本当の主体は親です。学校教育はその延長線上にあるわけで、本当の教育は親がするものなのです。その親がする教育というのは、実際どういうことなのかといったら、子どもに生きることの意味と方向、そして生き方というものを、しっかりと教えることなのです。それが先に生まれてきた、そして子どもを教育する親の責任というものだと思います。

 ところで、生きることはどんな意味を持っているのか。この世で生きていくということはそんなに簡単なことではないですよね。みなさんそれぞれ、言うに言えないようなご苦労をなさった経験もあるだろうし、今なさっている方もいらっしゃるだろうと思います。とくに年を取っていくというのは、大変なことです。年を取ったら、「ああ八十歳、ああそう、もう八十を過ぎられた、それはおめでとうございます」と言われるけれども、あまりおめでたいことではないわけです。結構しんどい話です。相当な覚悟がいるものです。どんな恐ろしいことが起こってくるかわからない。若いときでもそうですが、年を取ったらとくにそうですよ。だいたいが、思いがけないことです。こんなことが起こるとは思わなかった、というようなことが次つぎとおそってくるのが人生です。それを乗り越えていかないと、生きてはいかれません。とくに年をとったら、身心ともに衰えてきます。そこにもってきて、今まで一緒に生きてきた人たちが次つぎと亡くなっていきますから、ふと気がついたら、自分一人だけがぽつんと残っていたということになるかもしれません。結構、人生は過酷なものです。

 そうしますと、生きることに覚悟がいる。”覚”というのは目覚めるということです。”悟”というのは悟るということです。目覚め、悟らなければならないことがある。そうでなければ自分の老後を全うすることはできないのです。死にがけに、別に死にがけでなくてもよいけれど、私は何をしにこの世に生まれてきたのか、いろいろと悲しいことやつらいことやら、時には忘れてしまいたいようないやな思い出もあった、そんな中で何のために生きてきたのか、そんなむなしい思いを抱いて、この世を終わっていくということは惨めです。これは誰のことでもない、自分自身が惨めなのです。なぜそんな生き方をしなければならないのか、なぜそんなに惨めな思いをしなければならないのか、そのとき生きることの意味と方向と、そしてさらに必ず来る死を心豊かに受け容れることができるか否かが問われます。人生はある一定の年まで来たら、あとは自分の責任です。ですから、この惨めさを少なくしていくには、正しい教えによってしっかりと育てられないといけないのです。学校教育なんていうのは、人生の中でいえば、本当の端っこの、ほんの一面でしかありません。

 まあ、そういうことで、死んだらいったいどうなるのだろうかと思いながら、ただ不安と、そしていらだたしさだけが残るということが、我われの現実ではないでしょうか。死ぬことがどんな意味をもっているか、それがわからないのです。こんなことを言ったら、「え、死ぬことに意味があるのですか」と言った人がありました。そうでしょうね、生きることにこそ意味があるけれども、死ぬことには意味がないと、大方の人は考えるはずです。その無意味な死をいやおうなく受け容れなければならないというのだから、これは無惨です。無意味な死を受け容れることができないで、追いつめられて追いこまれていきます。ああでもない、こうでもないと言っているうちに、ふと気がついてみたら「おまえの持ち時間、もう切れたよ、さようなら」と人生が終わっていこうとするのです。そんな死を前にして、しかもなお、これもありがたいご縁ですと、受け容れられるかどうか、このことが問題となってくるのです。つらいことや嫌なことはあったけれども、「私にとってこの一生、ありがたい人生でございました」と、自分の人生に合掌して終わっていければそれでいいのではないですか。金があろうとなかろうと、地位があろうとなかろうと、どんな人生であろうと、自分にとってかけがえのない人生なのだから、そのかけがえのない人生を、むなしい愚痴の中で終わってたまるかと、私は思います。そうなったら、愚痴で終わらない生き方をすればいいではないか。愚痴で終わらないような人生の意味をはっきりと確認すればいいではないか。どんな状況で生きようと、どんなつらいことがあろうと、ありがたいことだったと言えるような、それぐらいの境地を開いた人であるならば、結構な臨終を迎えられるのではないですか。死ぬことを嫌がるよりも、やはり死ぬことにも尊い意味があるということを聞きひらくことが大切だと思います。ただそれがわからない。

 そういうことになりますと、お互いに足腰の達者なうちに、生きることと死ぬことの意味をしっかりと見極めなければならない。そのためには聞くべき教えがあり、そして歩むべき生き方があります。それをきっちりと聞きひらき、歩んでいくということが大事なことなのです。

 

この文章を読んで皆様はどのように感じました?生きることや死ぬことの意味はそう簡単には理解できないかもしれませんが、そのようなことを考え、向き合っていくことが大切であると思いますので、少しずつご一緒に向き合っていきましょう。

本日ご紹介させていただいたお言葉はほんの一部なので、またのご縁に先生のお言葉をご紹介させていただきたいと思います。

 

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

楠木光雲

 

仏説阿弥陀経

皆様こんにちは。兵庫県尼崎市南武庫之荘 真光寺の僧侶、楠木光雲です。

今日も月参りで、朝から御門徒様と御一緒に仏説阿弥陀経をお称えさせていただきました。

仏説阿弥陀経には阿弥陀様が感じ取られたお浄土の世界が描かれています。

皆様はお浄土という世界をどのようにみていますか?

お浄土に生まれて往きたい(往生したい)と本当に思って生活していますでしょうか。お葬式でおめでとうございますと口にできますでしょうか。阿弥陀様のように、お浄土は金や銀が散りばめられているほど素晴らしくみえますでしょうか。

正直なところ、なかなか難しいと思います。

しかし、その価値観ではいけないと気付くことぐらいは出来ると思います。私たちは自己中心的で弱く、物事をきちんと判断することが出来ない生き物である、それに気付くことが大切なのではないでしょうか。

このような御文があります。

願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国

日本語訳すると、

願わくは此の仏の功徳をば平等に一切衆生に分かち、ともどもに信心をいただいて仏の国に往生しよう。

もっと簡単に申し上げますと、

仏説阿弥陀経をお称えして、阿弥陀様のありがたさや素晴らしさがわかりましたか?わかったならば、それを周りの人、今日一緒に仏説阿弥陀経をお称え出来なかった人たちにもお伝えしましょうね。そして、阿弥陀様の世界、極楽浄土というところに生まれていきたいという気持ちをおこして生きていきましょうね。

この「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」という御文は回向とよばれていて、お経の最後に必ず称えられます。

なかなかお浄土に生まれていきたいと思えない煩悩だらけの私たちですが、仏様にしっかり手を合わせて、その価値観を御一緒に少しずつ変えていけたらいいですね。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

楠木光雲

 

報恩講法要

皆様こんばんは。阪急武庫之荘駅より徒歩3分のお寺 真光寺の僧侶、楠木光雲です。

パソコンの調子がどうも悪く、長らくの間更新出来なかったことをお詫び申し上げます。

真光寺では11月7日に報恩講法要を行います。お経を皆様方とお称えし、その後布教使様に御法話をお聞かせねがいます。

この間申し上げた通り、お聴聞することによって信心は形成されるものだと思いますので、報恩講に来ていただける方はご一緒にお味わいさせていただきましょう。

一人でも多くの方々に浄土真宗の教えや作法をもっともっと知っていただきたいと思っておりますので、皆様お忙しいかと思われますが、ぜひ真光寺へお参りくださいませ。

心よりお待ちしております。

 

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分 

楠木光雲

 

心に響くお念仏

皆様こんにちは。阪急武庫之荘駅から徒歩3分のお寺 真光寺の僧侶楠木光雲です。

皆様はどれぐらいの声でお経を称えていますか?また、どのくらいの声で称えればいいと思いますか?

ご存知かと思いますが、親鸞聖人のお師匠に法然聖人という方がおられました。

法然聖人はあるとき、お弟子さんにこのような質問をされます。

「法然様、念仏はどのぐらいの声で称えれば良いのでしょうか?」

法然聖人はその質問に対してこう答えられました。

「自分の耳に届くほどに」

私は、お経は大きな声で称えなければならないと思っていました。

しかし、法然聖人は自分の心に響けば小さくても、大きくても良いのだとおっしゃられたのです。

皆様も御自分の心に響くように、また御自分の心に響けば、次は周りの方々の心に響くようにお経を称えてください。

私も日々感謝の気持ちをお念仏申させていただこうと思います。

 

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分 

楠木光雲

間違われた作法

皆様こんにちは。武庫之荘 真光寺の僧侶楠木光雲です。

私は浄土真宗の教えや作法を正確に伝えていきたいと思っております。

本日は、よく間違われている作法を紹介したいと思います。

皆様、お線香は立てていますか?ねかせていますか?

浄土真宗の作法ではねかせるのが正解です。

何故かというと昔、抹香という粉の御香を香炉に埋めて線状にたいていました。

しかし、抹香は高価なもので手に入りにくいので、誰でも手に入れられて長持ちする線香が考えられました。

このように、浄土真宗では線香の香りをお供えする際に線香をねかせるのは、昔からのしきたりや作法を重んじているからです。

間違われている作法はこれだけではありません。また紹介させていただきます。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分 

楠木光雲

自己中心的な私

皆様こんにちは。武庫之荘の真光寺僧侶楠木光雲です。

正信念仏偈の龍樹章に

顕示難行陸路苦
信楽易行水道楽

という御文があります。私はこの御文にとても心が響きましたので、一緒に味わってみましょう。

この二行はこのようなことを表しています。

自分の力(自力)で悟りを開いていくことは、難しい行であってとてつもなく長い道のりを歩いていくようなものであり、反対に、阿弥陀如来様の願力におまかせして(他力)悟りを開いていくことは、誰でもおこない易い行であり、海の上を阿弥陀如来様というお船に乗せていただいてスーッと渡っていくようなものである。

 

よく、滝に打たれたりだとか何十日間も歩き回ってお経を何万回も称えたりされるのですか?と質問されます。しかし、浄土真宗の教えは自分の力が弱いことや自己中心的な生き物であるということに気付き、自分の力ではどうすることも出来ないので、阿弥陀如来様の願力におまかせして往生成仏させていただくというものであります。

そのため、自分は自己中心的で弱い人間だと気付くためには、厳しい修行も大切かとは思います。しかし、自力で悟りを開くことは至難の道であります。あの親鸞聖人や法然聖人ですら、生きている間は煩悩(人間の欲、人間のドロドロした汚い心)が消せないとおっしゃられています。

偉大な親鸞聖人や法然聖人が不可能なことを私たちがやり遂げられるでしょうか。私にはそんな自信はありません。

人それぞれにあった道を選択すればそれで良いと思います。私は浄土真宗の教えを選びたい、お勧めしたいと思います。

ここで一つ注意しておかなければならないことがあります。それは、よく他力本願を勘違いして楽な教えと捉えてしまう方もおられます。

そうではありません。

しっかりと努力した上で煩悩がたえない私たちであると自覚し、お願いや自分の功績のための念仏ではなく、感謝の念仏を称えてまいりましょう。

本日は御一緒に御味わいしていただきありがとうございました。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分 

楠木光雲

聴聞の大切さ

皆様こんばんは。兵庫県尼崎市南武庫之荘 真光寺の僧侶、楠木光雲です。

人間の口は、飲食をする機能と会話をする機能の二つの機能があります。しかし、一つしかついていません。

では、耳はどうでしょうか?

人間の耳は、聞くという機能の一つ(これ以外にはない)しかありません。それなのに二つついています。

聞くということがいかに大事であるかが、そこには表れているのではないでしょうか?

色々な方々のお話を聞くことも、大切なお経を聞く(称える)ことも大事にしていきたいと思います。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分 

楠木光雲

理想の僧侶

皆様こんばんは。浄土真宗本願寺派 真光寺の僧侶楠木光雲です。

今日御門徒様と理想の僧侶についてお話しをさせていただきました。

僧侶は御門徒様になんでも聞いてもらいやすい雰囲気を作っていかなければならないと改めて気付かされました。

上も下もない平らな関係を築いていって、御門徒様方と一緒に勉強していきたいと思います。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分 

楠木光雲

仏様を拝む意味

皆様こんにちは。真光寺 僧侶の楠木光雲です。

今日御門徒様とお話をしていて、数年前に私の先生がおっしゃっていたことを思い出しました。

生命体が動かなくなったとき、人間はそれを「死ぬ」とか「死んだ」また、「亡くなった」と言います。

そこには、悲しさや苦しさしかありません。

しかし、仏様はそれらを「往生」と名付けれてくださいました。そして、この世(此の土)との縁が終わればそれで終わりではない、またお浄土(彼の土)というところに生れていくのだ、と教えてくださいました。

私たち人間は、自己中心的で浅はかなものさしでしか物事を判断することが出来ません。

仏様を拝むということは、その間違っている価値判断(これを虚妄分別といいます)に気付かさせていただくことであり、マイナスの世界しか知らなかった私たちにプラスの世界を広げてくださるということであります。

これこそが、いわゆる「救い」ということではないでしょうか。

仏様を拝むことが大切であると、意味を理解した上で実感していきたいものですね。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

楠木光雲