念仏は自我崩壊の音

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は金子大栄師のお言葉を通して味わわせていただきたいと思います。

金子大栄師のお言葉

「念仏は自我崩壊の音である」

とても有難いお言葉でございます。

私たちは経験や知識を得れば得るほど、歳を重ねれば重ねるほどに、自分(自我)というものが作られていきます。

その自我というものに対して、悲しきかな、自信が出てくるのだと思います。

私はこれだけのことをやってきた。

私はこんな経験をして、こんな知識を持っている。

私の経験上、私の持ってる知識上絶対にこうだ・・・。

私たちはどこまでも私、私、私です。

自分の意見と違う人は受け入れません。

自分の経験や自分のものさしで全ての物事を見ます。

自分は間違っていない、あなたが間違っている、私はこれだけのことをやってきて経験してるのだから、間違ってる訳がない、という傲慢を起こしてしまうのです。

仏法は私は悪人です、といただきます。

こんなことをいちいち説明しなくても大丈夫だと思いますが、悪人とは別に世間で言われている悪いことをする人や犯罪を犯す人のことを言ってるのではありません。

悪人とは自分を中心にする者全てです。

悪人とは、誰でもない、私のことです。

私は悪人だと思えるのは仏法のご縁に遇わせていただいたからこそです。

頑固で私は何にも間違ってない、と思ってる者を、あぁ私が一番悪かったです、とならせてくださるのが仏法です。

仏法は私に必要なものと聴いていかないといけないと思います。

私は誰よりも自分勝手で自分を中心に生きています、心の底から本当に申し訳ないことです、とならせていただくのです。

他の人ではなく私こそに問題意識があります、とならせていただくことが仏法をお聴かせいただくことで一番有難いことだと思います。

念仏は自我崩壊の音である、というお言葉はとても素晴らしいお言葉だと思います。

積み上げてきた経験や知識は何よりも壊し難いものだと思います。

90歳の人がいたとしまして、もし自分の意見や考えを否定されたら、90年という自分がやってきたことを否定された気分になるのだと思います。

知識や経験はもちろん大事ですし、否定してる訳ではありません。

何をお伝えしたかったのかといいますと、問題意識は他の誰でもない私、ということです。

そして、仏法(念仏)は自我をぶち壊してくれるものであるということです。

仏法をお聴かせいただくことで大事なことは、だれでもない私こそが一番自分勝手で恥ずべき生き方をしてました、とならせていただくことです。

南無阿弥陀仏

浄土真宗は何もしなくていい?part2

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日も、浄土真宗は何もしなくていいのか?ということについて、お話をさせていただきます。

一つ質問をさせていただきます。

「あなたは手が汚れていたらどうしますか?」

・・・・・。

何を言っているのですか。当たり前に手を洗うか、汚れを取り除くに決まってるじゃないですか。

と、お思いになられませんでしたでしょうか?

私もそのように思います。

でも、宗教の場合は違うように思われているようです。

浄土真宗の教えは他力本願なので、何もしなくていいということですか?というご質問を何百回と聞いてきました。

浄土真宗では、自分は煩悩具足の凡夫(煩悩に振り回される愚かな私)と知らせていただきます。

煩悩という言葉も煩い悩むと書きます。

真剣に心の底から煩い悩んだ人が使った言葉ということです。

手が汚れている。

つまり、私は自己中心的な生き方をしている愚かな浅ましい恥ずかしい人間である。

と気付いたらどうするか?ということです。

手が汚れていて、あぁ汚れているな、と思って放置する人がいますか?

一緒のことです。

私は恥ずかしい生き方をしている、という風に思ったら、思ったと同時にそのままでは嫌だと思うはずです。

もちろん浄土真宗は生き方は問われません。

しかし、その言葉は謙虚さから出る言葉だと私は味わわさせていただいております。

そのまま鵜呑みにして、本当に適当に何も考えずにダラダラと生活をしていいのかというと、そんな教えであればめちゃくちゃになります。

そのような薄っぺらい教えであれば、何百年という歴史がある宗教になってません。

仏様に我が身が煩悩具足の凡夫と(心の底から)知らされたら、ほんの少しでもそれを脱したい、仏様のようにはなれないかもしれないけれど、仏様のようにならせていただきたい、と思うのです。

こんな素晴らしい生き方やお心を知らせてくれているのだから、なんとかそのようにしたい、と思うはずです。

思えない、思わない、ならばそれは仏様を尊いと仰げていないということです。

仏様を拝む前と拝む後は全然違います。

拝むといいましてもただ単に格好だけ(外面だけ)手を合わせるってことではありません。

内なる(内面の)拝みです。

私の心の中で仏様を真剣に一番大事だと思うということです。

仏様を真剣に一番大事だと思うことを拝むというのだと思います。

話を戻しますが、浄土真宗は何もしなくていいのですか?という問いが出るということは、仏様が一番大事だと思えていないのかもしれません。

仏様を一番尊いと位置付けをすることの意味を自分の中でしっかりと持たせていただくことが重要です。

浄土真宗の教えは、自分の持ち場持ち場で精一杯努力し、仏様のような生き方を目指して自分の煩悩具足という愚かな部分を出来る限り意識して生活をさせていただく、ということではないかと思います。

南無阿弥陀仏


7月7日 ぜひ 真光寺へ

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

本日はお経を一緒に読みましょうの勉強会の日です。

16時から約1時間程度です。

晩御飯の前に一緒に学ばさせていただきましょう。

ゆっくり丁寧に進めていきますので、ついていけるか不安だという方はご安心くださいませ。

ぜひ皆様真光寺にお越しください。お待ちしてます。

南無阿弥陀仏

浄土真宗は何もしなくていいのですか?

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日はタイトルにもありますように、浄土真宗の教えは何もしなくていいのか?ということをテーマとしてお話させていただきます。

小山一行師のお言葉にこのようなお言葉がございます。

仏教は「仏道」であり、「仏道」は「道」です。

「道」は歩かなくては「道」ではありません。

「あそこに道があるわい」と眺めているだけでは意味がないのです。

仏様の立場からすればそのままでいいと見てくださいますが、やはり私たちは軌道修正していくべきだと思います。

出来ることはやっていくべきだと思います。

しかし、その言動の一つ一つが自分をものさしにするのではなくて、仏様という存在をものさし(軸)にさせていただくということです。

南無阿弥陀仏