浄土真宗は何故批判しない?

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  真光寺  楠木光雲です。

本日は「浄土真宗の教えは何故他の宗派を批判(否定)しないのか」ということについてお話しさせていただきます。
私たちは宗という字を、宗派という言葉を用い、所属する宗教団体という意味で用いています。

しかし、元々の宗という言葉の意味は何なのでしょうか。
それは、要です。

例えば、扇子ですが、要となる部分が崩れてしまいますとどうなってしまうでしょうか。

全てがバラバラになってしまいます。

要は全てを表しています。

全ては要を表しています。

そのように、肝心で最も大切なものです。
つまり、仏教(お釈迦様がお説きくださった教え)においての要はどこなのか?ということを宗名は表しているということです。
仏教というものは禅が要であると見ていかれた仏教観を禅宗といいます。

戒律を要とする場合は律宗といいます。同じように、教学を要とするならば経宗といいます。

経宗はお釈迦様がお説きくださったお経全般を要とします。

では、華厳経を要とするならばどうなるでしょうか?お分かりの通り、華厳宗です。

ここまでご説明させていただきますと、もう説明不要だと思いますが、浄土三部経を仏教の要であるとみていく仏教観(法然聖人による)を浄土宗といいます。

では、何故浄土真宗というのでしょうか。

それは親鸞聖人が真と仮ということを非常に意識されていたからです。

この真仮についてお話すると物凄く長文になってしまいますので、今回はおいておきます。

とにかく、浄土真宗は仏教という内容において浄土三部経が要であるとみる仏教観な のです。
このように申し上げると一つ疑問に思うことがあると思います。

では、浄土三部経以外のお経をお釈迦様は何故説いたのだろうか?と。

親鸞聖人は浄土三部経以外のお経を権仮方便のお経であるというように見ていかれました。

権仮方便という言葉は少し難しく、聞きなじみがない方もおられることでしょう。

簡単に申し上げますと教育手段ということです。

要に近づかせるためのものです。

例えば、建物を建てる際に足場を組むと思います。

しかし、その足場は建物を建てるためのものであって建物が建ってしまえば必要ありません。

とはいえ、建物を建てるためには足場は必要ではあります。
お話ししてきた内容を少しまとめながら整理したいと思います。
浄土真宗はお釈迦様がお説きくださった教えの中で要は浄土三部経であるとみていく仏教観です。

そして、浄土三部経以外のお経は、権仮方便のお経と見ていきます。

真実(究極)の教えに導くために必要な教えです。
だから、浄土真宗の教えは他の宗派を批判(否定)することはありません。

自力聖道門(自力の修行によって自らの心を清らかにし、悟りを開く)の人たちのことに対しては、むしろ敬意を払っているのではないかと思います。
色々な仏教観(宗)がありますが、自分にあった仏教観を大切にすればいいと思います。
私は親鸞聖人の仏教観がやはり自分には合っているのではないかと思っています。
強制したり、批判したりはせずにそれぞれの道が素晴らしいと見ていけるのも親鸞聖人のお蔭です。
また、改めて感謝させていただこうと思います。

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

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自分中心と自分らしくは違う

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺の楠木光雲です。

本日お勤めをさせていただいた後にご門徒様から貴重なご質問をいただきました。

【自分中心に生きる】と【自分らしく生きる】はどう違うのでしょうか?というご質問でした。

本日は自分中心と自分らしくは違う、ということについてお話しさせていただきたいと思います。

自分を中心に生きるとはどのような生き方でしょうか?

自分を中心に生きるというのは、自分が生きてきた人生経験(自分の計らい、自分のものさし、我執)をもとにどんなことも判断してしまうことです。

もちろん人生経験は大事なことですし、どんどん積んでいった方が良いと思います。

しかし、ときにその人生経験を基にしたものさしは人を傷つけることになってしまったり、悩みを生み出すものであるということを忘れてはなりません。

自分のものさしで価値判断するとどうなってしまうのかと言いますと、

相手にとって良いことも自分にとっては悪いこと。

自分にとって良いことも相手にとっては悪いこと。

という状況に直面することになります。

当然ながら、全く同じ人生を歩んできた人は一人もいません。

ですから、その人生経験をもとに善悪というものを判断したり、物事を価値判断すると、周りの人と自分でズレというものが起こります。

私が良いことだと思っていても、相手はときにそれを悪いと判断します。

何故私の善を分かってくれないの?という風に争いが起こってしまいます。でも相手は相手の善なのです。

そこで何が必要なのか?といいますと、

親鸞聖人やお釈迦様は、念仏や阿弥陀という心こそが大切なのだとおっしゃっています。

もう少し噛み砕いて言えば、絶対的な価値判断基準(理想の姿、心)が大切ですよと教えてくれているのです。

この価値判断基準(理想の姿、心)を中心に置いて、今まで中心に置いていた我(自分)というものが一番外核にくる。

その逆転現象を仏教では回心といいます。この回心が起こっている状況を信仰といいます。

どんなこともこの阿弥陀という生き方にリードされ生活をする。(お釈迦様は法灯明と表現しています)

間違っている道なのか正しい道なのかは全てこの阿弥陀という心があれば見えてきます。

果たしてそれが実行できるのかというと、それは別の話であり難しいと思います。

けれど、自分がどういう道を進んでいくことが幸せなのか、どういう考え方や生き方が良いことなのかということは見えてきます。

自分、我というものさしで物事を判断する生き方をすれば、必ずといっていいほど行き詰まります。

自分を中心にしてはならないとは分かっていても自分を中心にしてしまうのが私たちです。

そのような自己中心的な私たちですが、出来る限りは自分の中心に理想の姿(阿弥陀様)を置いて、羅針盤として生活させていただきましょうというのが浄土真宗の教えです。(専門用語で他力本願といいます。)

 

それから、自分らしく生きることはどうなのか?ということですが、自分らしく生きるということと自分を中心に生きるということはまた別のように感じます。

むしろ、自分らしく生きていかなければならないと思います。

では、仏教で自分らしく生きるとは、どのような生き方なのでしょうか?

結論から申しますと、ものごとを本来のありのままに見るという生き方であると思います。

例に挙げるときりがないですが、一つ具体例を挙げたいと思います。

私たちが物事をありのままに見ることが出来ていない一つの例が「老・病・死」です。

年を重ねることは体を痛めていくだけ。病気することは体が蝕まれていくだけ。死が人生の終わりおしまい。

そのように、私たちは「老・病・死」をマイナスにしかどうしても見られません。

でも、仏という眼で「老病死」を見たらどうでしょう。

年を重ねるということは心、感性、気持ちがどんどん豊かになっていく。

病気をすることによって当たり前と思っていたことが驚きだったと気付かされる(諸行無常を感じる)。

死が終わりではなく、「往生」、私たちの心(仏教では浄土とよんでいます)に生まれて往く。

というように、逆境ではあるのですが、そこになんとか光(プラス)を見ていけるのです。

どんな逆境に置いてもそこに光を見出して、物事をありのままに見ることが出来る、それが仏の眼(阿弥陀という感性、心)であると思います。

自分が自分らしく生きていないとは、どんなこともありのままに見られないことではないでしょうか。

自分らしく生きるとは、このように物事をありのままに見られる眼を開かされることと思われます。

自分の我が計らい(煩悩)は生涯消せずにつきまとうものではありますが、できる限りは我が計らい(ものさし)を捨て阿弥陀という理想の姿を大事にし、そしてありのまま物事を見ていくという自分らしい生き方で共に人生を歩んでまいりたいと思います。

 

 

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浄土真宗本願寺派 真光寺

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お問い合わせについて お詫び

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺の楠木光雲です。

本日はお問い合わせについてのお詫びを申し上げます。

先日、ある方からお電話をいただきました。

「お問い合わせフォームからメールを送ったのですが、返信がきませんでした」とのことでした。

大変申し訳御座いませんでした。

確認しましたところ、メールアドレスを変更していたにも関わらず、お問い合わせフォームのアドレスを変更させるのを忘れていました。

この三か月ほどの間にご連絡していただいた方は大変申し訳御座いませんでした。

お電話していただいた方以外にも、もしかしたらお問い合わせくださっていた方がいらっしゃるかもしれません。

本当に失礼なことを致しました。

お問い合わせいただいたメールを出来る限り確認するように心がけますが、返信がない場合やお急ぎの方はお電話していただければ幸いです。

ご迷惑をお掛け致しました。

今後とも最善を尽くし、精進してまいりますので、何卒よろしくお願い致します。

 

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念仏のみぞまこと

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺の楠木光雲です。

本日は「念仏のみぞまこと」ということについてお味わいさせていただきます。

このような詩がございます。

 

私はらっきょ。

皮ばかりで真がない実がない。

一皮むけば欲の皮。

二皮むけばウソの皮。

三皮むけば化けの皮。

 

私たちのことをうまく表現している詩だと思います。

 

また、漢字にも私たちのことをそのままに表しているものがございます。

「偽」です。

人の為と書いて、「偽」。

私たちは純粋に人のために何かをしてあげることがあると思います。

しかし、大半のことが、どこかしら見返りを求めてしまっていたり、お礼や感謝をされるのを望んでいたりします。

私たちの行動、言動、生活・・・全てが、嘘や偽りで固められているのが現実です。

嘘や偽りだらけの考えや生活をしているとどうなるのでしょうか。

善悪の判断が出来ません。

良いことや悪いことの判断基準が自分であれば、その自分というものが真実なるものでなくては正しく価値判断することが出来ません。

自分が虚仮不実な存在であるならば、もちろん良いことや悪いこと(善悪)の判断をきちんとつけることが出来ません。

では、何を真実とし、善悪の判断基準にすれば良いのでしょうか。

親鸞聖人は仰せになります。

「ただ念仏のみぞまことにておわします。」

つまり、真実なるものは念仏以外に存在しませんよ、とおっしゃられているのです。

南無阿弥陀仏とは、正しい見方が出来るお心を素直に受け取らせてていただきますという誓いの御言葉であると他の記事で申し上げました。

私たちは虚仮不実である。嘘偽りだらけであるから物事を正しく見れないし、善悪の判断もつけられない。だから、物事をありのままに見ることができる羅針盤が必要なのです。

その羅針盤こそが、お念仏、つまり南無阿弥陀仏という正しく物事をみることが出来るお心なのです。

お念仏と御縁が結ばれている我が身を感謝し、お念仏を大事にして生活させていただきましょう。

 

南無阿弥陀仏

 

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