退転しない 不退転

皆様こんにちは。武庫之荘 浄土真宗 寺院 楠木光雲です。
本日は不退転ということについてお話させていただきます。
さっそくお話を進めてまいります。
「不退転」は「ふたいてん」とお読みします。

退転しない。
つまり、退いて転がらないという意味です。
初めに申し上げておきますが、もちろん色々な捉え方が出来ますので、この記事だけが全てではないと思ってください。
それでは、お話に戻ります。
浄土真宗では、阿弥陀様という存在を一番尊いと位置付けております。
阿弥陀様は量り知れないほどの性質(徳ともいいます)をお持ちです。
たくさんの意味が含まれているということです。
たくさんの意味や性質の一つに、無量寿という命の根源が挙げられます。
私たちは命が尽きたとき、無量寿という命の根源に還らせていただきます。(成仏するとも言います。浄土に参らせていただくとも言います。色々な言い方があります。)
その無量寿という命の根源になったならば、退転しないということです。
浄土真宗において、最も素晴らしいと位置付けている阿弥陀様という命の根源に成らせていただいたならば、わざわざ虫、動物、植物、人間、などという命に退転(退き転がる、せっかく仏様になったのにまた戻ったりぐるぐる迷うということ)しなくても良いということです。
前回の記事に輪廻転生のことについて記載させていただいたのですが、退転するということなのか?という疑問をお持ちの方も出てきそうだったので、不退転の位に住す、ということもお伝えしておきたかったのです。
けれども、不退転でありながら、どのような命にもその無量寿という命は散りばめられているということです。
どのような命(動物、植物、虫、人間など・・・)も根源は無量寿だという風に見ていければ、どのような命も元々は一つの命だと大事に出来るのだと思います。
病気を持っていようが、いまいが、容姿が整っていようが、いまいが、嫌いな人も、いつも怒っている上司も、好きな人も、普通の人も、皆、同じ命(自他一如と言います。無分別とも言います。)ということです。
でも、人間は極めてそのような考え方を嫌います。
そのようにはどうしても、捉えられないのです。
自分と他人を分け隔ててしまうのが、私たちの性質です。
とても悲しいことです。
でも、本当はそのように分別を越えた世界やお心を大事にすることが本来目指すべき姿と理解するべきではないでしょうか。
少し難しい内容だったかと思いますが、一つの側面からではなく、視野を広げて、色んなことを色んな風に捉えていただければ幸いです。

南無阿弥陀仏

無量寿 輪廻転生について

皆様こんにちは。

武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

本日は命の捉え方や輪廻転生について、お話をさせていただきます。

ぜひご覧いただければ嬉しく思います。

世間一般的に命はどのように捉えられているでしょうか?
世間一般的に命は「私は私という命を生きている。私という命が尽きれば、私という人間は終わり。」
というように、考えられているのではないでしょうか?
しかし、浄土真宗ではそのようには考えていないように思います。
では、どのように捉えているのか?というと、「私の根源は無量寿という量り知ることが出来ない命である。つまり、無量寿という命が私を生きている。」
という風に考えているのではないかと思います。
私という生命体の体が尽きたら、無量寿という命の根源に還るということです。
この無量寿という命の親、命の根源を浄土真宗では阿弥陀様とお呼びしております。
喩えを出すならば「海の気泡の喩え」が、とてもしっくりきてわかりやすいと思います。
海を見ておりますと、時々、気泡が出てくることがあります。
その気泡は長く気泡であり続けるものもあれば、すぐに消えてしまうものもあります。
消え方もそれぞれで、岩に当たって消えることもあれば、自然に消えていくこともあります。
でも、この気泡は本当に消えたと言えるでしょうか?
これは、消えたのではなく、海という根源に還ったのでないでしょうか。
気泡の正体は元々、海でした。
その海から気泡があらわれて、なんらかの理由で気泡が消えるとき、その気泡はまたその海に還っていくのです。
それと同じように、私たちも無量寿という量り知ることが出来ない命が私を生きている。
私という体が尽きたとき、その命であります無量寿という命の根源に還るということです。

ある方が輪廻転生はあるのでしょうか?とおっしゃられました。
輪廻転生はあると言えばあると言えますし、ないと言えばないと言えると私は思います。
曖昧な表現で申し訳ございません。
しかし、非常に深い内容なので、簡単にこうです!と一言で申し上げることが出来ないのです。
本当に申し訳ないと思いますが、適当なことを申し上げることが出来ないので、どうかお許しをいただき、ご理解いただければ幸いです。

命の根源になるということは、すなわち、なろうと思えばどのような命にもなることが出来る、ということです。
どのような命にもなることが出来ると言うより、生きとし生けるものは全て、無量寿の種ですと言ったほうが表現が良いでしょうか。
生きとし生けるものは無量寿の種です。
そして、無量寿は生きとし生けるものを生きています。
つまり、どちらも無量寿のつながりがあるということです。
だから、それすなわち、本当に極論ではありますが、輪廻転生をしていると言ってもいいのではないかと思うのです。
そういう点から見れば輪廻転生はあると言えます。
無量寿という命が私を生きている。
それだけではなくて、無量寿という命は動物、虫、人間、あらゆる生命体を生きているのです。
「一切衆生悉有仏性」というお言葉もありますように、一切の生きとし生けるものは仏様の種である。仏様になる可能性を秘めている。仏様が私を生きている。ということです。
輪廻転生がありますか?の回答をあります!とするならば、このようなご説明をさせていただきます。

しかし、一方、輪廻転生がないとも回答出来ると思います。
そう言いたい理由は、世間一般の方々が用いている「輪廻転生」は、迷うという意味で使っておられることが多いからです。
死んだら次は蛇になるのかな?とか、死んだら次は虫になったら嫌だな。とか。
大体の方々がそのようなイメージをお持ちです。
だから、そのような方々には輪廻転生はないと言ってあげた方がいいかもしれません。
往生したら仏様になる、無量寿という根源に還るということを踏まえていない(理解していない)場合は、輪廻転生があると言うのは少しあぶない気がします。
余計に混乱させてしまうからです。
それらを理解していない方に簡単に輪廻転生はあります!と申し上げると「やっぱり輪廻転生はあるんだ!私の次の人生はゴキブリではなくて、崇高な生き物が良いな!」などと、とても浅い味わいをしてしまいます。
簡単に回答をしてしまいそのような味わいをされるのは、とても残念でなりません。

無量寿という命はいわば、どんな命にもなれる。
いや、どんな命にもなっている。むしろ、もうすでに無量寿が私を生きているのであれば、輪廻転生の人生を歩んでいるとも言える。
しかし、死んだら何か訳の分からないくだらないものになるという考え方は違うので、その点には気をつけましょう。
だから、結論、輪廻転生はあるとも言えるし、ないとも言える。のではないでしょうか?
というのが、私の現状の答えです。
私の現状の精一杯の味わいの中で感じたことです。
まだまだ私は未熟者です。
そして、これからも未熟者であり続ける私です。
また、色々な方々のご教示を賜りたく思います。
うまく伝えられたか分かりませんが、最後までご覧いただき、本当にありがとうございます。

南無阿弥陀仏

聴き力

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

少し前の記事で、宗祖の偉大なところは仏教観にあるというお話をさせていただきました。
まだご覧になられていない方はぜひご覧ください。
その記事の内容を掻い摘んで簡単に申し上げますと、宗祖と仰がれる方は、仏教に対して、どこが肝心要なのかを見抜く力がずば抜けて凄いということでした。
本日は、この見抜く力(ズバリ何が大事かを察知する力)に通じるお話をさせていただきます。
何故このお話をしようと思ったかというと、お参りに行かせていただいた時や、日常生活でもそうですが、お話をしていて、度々思うことがあったからです。
それは、話(譬え話など)を通して何が一番伝えたいかを察知できる人と、出来ない人の差はかなり大きいということです。
仏教には譬え話が多く存在します。
それは、私たちが理解しやすいように、わかりやすく巧みな表現で私たちのために説いてくださっているからです。
そのせっかく私たちのために説いてくださった譬え話が活きていないのがとてももどかしいのです。
前回の記事で、分からなくても分からないままにそのままお聴かせいただくことが大事だと申し上げました。
私も意識させていただいていることでございます。
あれこれ考えずに、評論家みたいにならずに、素直に聴かせていただくことが大切です。
もちろんそうです。
しかし、そうは言ってもやはりお聴聞は仏縁をいただくためのものです。
その一番重要なことぐらいは踏まえて聴かせていただかねばならないと思うのです。
このお話は何を私に伝えようとしてくれているのか?
もちろんただの世間話をする際は、そのような意識は特に必要はありません。
どんなちっぽけな世間話であっても仏縁は散りばめられていると見ていければ、この上なく良いことだと思いますが・・・。
とにかく、仏法をお聴かせいただく際は、良い意味で聴き上手になった方が良いということでございます。
「あ!これは私にこのようなことを伝えてくれているのか!」「この譬え話の真意はここにあるのではないか?」などという聴き方をすれば、より一層深い味わいが出来ると思います。
仏法は他人をどうこう申し上げるものではありません。
自分に問いかけていくものだと思います。
親鸞聖人は「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と喜ばれました。
このお話は私のためにこそあったのだ!というぐらいのお心持ちで、良い意味で聴き上手になり、大切なことを見逃さないで一度きりのご縁(お聴聞)を大切に致しましょう。

最後に若林真人師のお言葉を紹介させていただきまして、本日のご縁とさせていただきます。
宗教を持たない人と話すのは退屈である、なぜなら世間話しか無いのだから。
宗教に凝った人と話すのは窮屈である、なぜなら世間話が一つも無いから。
宗教に親しむ人と話すのは心地よい、なぜなら世間話であっても後味が良いから。

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

義なきを義とす

皆様こんにちは。

武庫之荘 浄土真宗 寺院 真光寺の楠木光雲です。
本日は、義なきを義とす(我が計らいをまじえないことを本義とする)というテーマでお話させていただきます。
私はお目にかかったことはないのですが、深川倫雄和上という偉大なお方がおられたそうです。
その深川倫雄和上が残されたお言葉は、度々、色々なところで多くの方々からお聞き致します。
どれもこれも魅力的なお言葉です。

あるとき、この深川倫雄和上が「坊さんはつまらんです。法をわざわざ言葉に変えて人に語らんといけないから。」とおっしゃったそうでございます。
私はこのお言葉を聞かせていただいたとき、とても共感する部分がありました。
僧侶がつまらないとはもちろん思ってはないですが、言葉は不自由だなと思うことがよくあるのです。
伝える(お取り次ぎする)には私たちはほぼ言葉しかツールがありません。
でも、この言葉。
これが非常に厄介なもので、言葉で表現するにはかなり縛りがあると思います。
伝えたい内容、感情、感覚、味わいは言葉にすると何か違う気がするときがあります。
これが全てではないのに、この言葉だけにおさめなければいけないのは正直つらいな、とか、この深く素晴らしい味わいは言葉には出来ないな、などと、思ってしまうときが本当に多いのでございます。
悲しきかな、受け取る人によって大きな誤解を生じてしまったり、100の内の10ぐらいしか伝わっていないのでは?と思うときもあります。
それは、もちろん自分がお取り次ぎをするときだけに限ったことではありません。
というのも、正直、私自身もうまく100パーセント全て受け取れている自信がありません。
浄土真宗の教えを学び始めた頃の「仏様」という言葉と、現在の「仏様」という言葉は、自分自身の中での意味や価値、そして位置付けが全くと言っていいほど違います。
つまり、ほとんど心に響くことなく、すごく大事なことも簡単にスルーしてしまっていた時期が私にもあったということです。
そういうことを強く感じ、思ったときに私の心に届くのはやはり先輩方のお言葉です。
先輩方より、よく「仏法はわからないままにそのまま聴かせていただくのだ」というように度々教えていただいています。
仏様は量り知れません。
輝きを放つ言葉や世界を私というフィルターをかけてしまったら、それはもう私という限定された狭い世界になってしまいます。
そのままに、素直に、私の一切全てをまじえないで、仏様のお言葉をお聴かせいただくことが大切なのでございます。
この意識は、油断すると、すぐ薄れます。
常に意識する!と、自分自身に言い聞かせて注意したいと思います。
皆様もご一緒にそれらを注意しながら、お聴かせいただきましょう。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

3+1=1の世界

皆様こんにちは。浄土真宗 武庫之荘 寺院 真光寺 楠木光雲です。

本日は【3+1=1の世界】というテーマでお話させていただきます。

初っ端から何を言っているのだ?とお思いになられているかと思います。

しかし、ある方からこのようなお話を聞かせていただきました。

ある息子様がリビングで食事をしていました。

そこにお母様がやってきます。

お母様は息子様と同様に食事の時間を共にしました。(1+1=2)

少し時間が経ち、そこにお父様がやってきます。

同じく、息子様とお母様に話しかけながら席につき、一緒に食事をいただきます。(2+1=3)

これで、計3人です。

もう少し時間が経ちまして、3人のところに、今度はおばあ様がやってきます。

すると、息子様は「行ってきます!」と学校に、お母様は「あ~忙しい、忙しい」と洗濯物を取り込みに、お父様は「仕事!仕事!」と会社に出掛けてしまいました。(3+1=1)

みんなおばあ様のことをよく想っておられなかったのでしょう。

無理矢理に理由をつけておばあ様から離れた訳でございます。

これが3+1=1の世界です。

この世は不合理な世界です。

思うようにはなかなかいきません。

普通は3+1=4です。

でも、この世はそんな簡単な世界ではないみたいです。

良いことをすれば、良いことが起きる。悪いことをしたら、悪いことが起きる。という、単純な仕組みではありません。

どれだけたくさん良いことをしても、重い病気に罹ってしまうこともあるでしょう。

思わぬタイミングで命尽きるときもあるでしょう。

よく考えれば、世の中3+1=1というような思いもよらぬことばかりだと思うのでございます。

けれども、浄土真宗の教えは本物です。

このようなことを誤魔化しません。

お念仏を称えたら治る、願ったら何でもかんでも叶う、というデタラメなことを説いている宗教ではありません。

良いことをたくさんしたとしても、病気になってしまうかもしれません。

納得のいく命の尽き方ではないかもしれません。

教えを大事にしていても、つらいことは山ほどあります。

でも、一つ言い切れることがあります。

そのようなつらい中、悩みの中であっても、喜べる世界があるということです。

もう少し厳密に言うと、その逆境の中にいても最高に幸せだ、というように喜べる方を仏様というのではないか、と思うのです。

幸せを不幸せとしか思えない人は不幸せ。幸せを幸せと気付くことが出来る人が幸せ。

という言葉があるように、もうすでにたくさんの御恵みの中にいた、というように幸せを幸せだと気付くことが出来る世界を賜っています。

これが、浄土真宗の教えであり、無理がない本物の教えではないかと思うのです。

 

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分