仏様とは?

皆様こんにちは。武庫之荘  寺院  真光寺の楠木光雲です。

本日は仏様とは?ということについてお話しさせていただきます。よろしくお願い致します。

私たちは仏様という言葉をよく用います。しかし、では仏様とは何なのですか?といざ聞かれましたら答えることが出来ますでしょうか?
私は正直、約10年間仏教と真剣に向き合ってきて、わからないことがたくさんありました。
ですが、ようやく自分なりに仏様とは?ということに関して少しはお話しできるようになってきたかな?と思います。
仏様がわかったなどと思い上がってはならない、仏様は分からないものであるし自分のものさしではかってはならないということを重々承知の上でこのようなお話をさせていただいています。
やはり、何故仏様は大事なのかということを追求したかったですし、皆様にも少しお考えいただきたいのでございます。
よくわからないものを私は大事には出来ません。
皆様もそうではないかと思います。
意味がわかり、有り難いと思うから大切に出来るのだと思うのでございます。
色々と賛否両論はあると思いますが、否の意見も理解してる上での言葉だと思っていただければ幸いです。
話を戻しますが、10年間僧侶として活動をしてきたにも関わらず、仏様とはどのような存在であるか?という自分なりの確固たる回答を用意するのは極めて難しいということです。
であるならば、一般的なご家庭の方が仏様を理解するのはよっぽどのご縁や境遇が重ならなければ難しいと私は思います。
その方々の仏様に対する想いや見方を少しだけでもクリアにするために、参考程度にお聞きくだされば嬉しいです。
そもそも仏様は限定を越えた存在であるから、答えは一つとは限りませんし、私の仏観と皆様の仏観では異なる可能性は大いにあります。
それを踏まえた上で、私の仏様に対する想いや見方をお聞きくだされば幸いです。

仏様とは、大きく三つの意味が集約されているのではないかと感じました。

一つが、亡くなられた方のこと。
その中でも小さく分けて3つあります。
①1番直近に亡くなられた方。
②それから、亡くなられた方全て【自分の大切だと思っている方以外の方々も含まれます】を表すときもあります。
③それから、1番重要なのが無量寿という命の根源を表すときもあります。
浄土真宗では、無量寿として仏様という言葉を用いたり、阿弥陀様という言葉を用いていることは間違いありません。
ですが、今の現代の方々の気持ちや色々なことを考慮して亡くなられた方と見ても【入り口はそれでも】許されるのではないかと考えております。
現代においては、①②③の3つの命を合わせて仏様と総称しているのではないかと私は思っております。

二つ目がお心。目指すべき姿。
例えば、慈悲という他者の幸せを1番に考えていくという清らかで目指すべき心。
命を一切平等に見ることが出来る心。
生きとし生けるもの全てを尊いと見ていける心。

どんな逆境においてもそこに光を見出していけるお心。
というように、我々が本来あるべき、目指さなくてはならない心。
仏様は、いるかいないかではなく、なれるかなれないかという言葉もありますように、具体的な目指すべき姿や心を意味するときもあると思います。

三つ目が、お育て、智慧、教え、気付かせるもの、学びです。
これは例えば、他人のことはよく目につくが自分のことは目につかない。
外に迷っているのではなく、自分に迷っている。

私たちは、明かりが全くない考え方生き方をしている。煩悩は髪の毛の如し伸びてくる。生涯身に満ち満ちている。

など、という生活や生きていく上での極めて重要で大切にしなくていけないこと、また意識しなければならないこと。【言葉、教え】
他にも、親鸞聖人のお言葉、また聖徳太子の言葉、七高僧の言葉。書物、お聖教、お経・・・。
そういう、お心や姿ではないのですか、私たちに成長、気付きを与えるものです。
これも、二つ目のお心、あるべき姿と合わせてもいいのかな?と思いますが、一応わかりやすく、分けさせていただいています。

まとめると、一言で申し上げると、仏様は無量寿、そして無量光【その中に慈悲と智慧が含む】。
この一言で申し上げた言葉【無量寿、無量光】を開くと、今までお話ししてきたようなことなのかな?と思います。
世間の方々は、この中でも無量寿の中のほんの一部分の直近の亡くなった方のみを仏様と言い、それだけが仏様であると思ってらっしゃる可能性があります。
実は、仏教とたくさん触れる前、私はそうでした。
ご縁は常に届いていたのですが、私がそれを拒否していました。
ご縁をご縁として受け止め、しっかりと味わさせていただいて、仏様は直近に亡くなられた方だけを指しているのではなく、これだけ多くの意味やお徳が詰め込まれているのだと知りました。
皆様は仏様という言葉、仏様という存在に対して、どうお考えでしょうか?
また、考えや見方が少し変わりましたでしょうか?
仏様とは?それが自分なりにしっかりと言えたらいいですね。

南無阿弥陀仏

 

浄土真宗本願寺派 真光寺
兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号
阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分
ホームページ http://sinkouji.mail.jp/

宗教はこわい

皆様こんにちは。浄土真宗 武庫之荘 寺院 真光寺の楠木光雲です。
本日はタイトルにもありますように、宗教はこわい(人間はこわい)ということを少しお話しさせていただこうと思います。
ご安心ください、タイトルが少し過激なだけでございます。
突然何を言い出すのだと思われた方もいらっしゃるかと思います。
それに、お寺と御縁がないならまだしも、お寺の僧侶が言うことはおかしいと思われた方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、大真面目にそう思うのでございます。
宗教はとても素晴らしく私たちに必要不可欠なものであると言い切ることが出来ます。
私たちの生活や生き方をより良いものにしていくからです。
考えることもなかった自分自身のことを深く内観することも宗教の良さかもしれません。
ありのままにものごとを見ることが出来ない私たちに、このような感性があるのだということも知らせてくれます。
では、何故宗教はこわいなどと申しあげるのかということをお話ししていきたいと思います。
正しく申し上げますと、宗教を間違ってとらえてしまったり、宗教と言いながらそれはもはや宗教ではないものを大事にしてしまう私たち人間がこわいのです。
宗教が存在するのはそもそも何故でしょうか?
答えは人それぞれかもしれませんが、私たちがお育ていただいていくためだと思いますし、生活や生き方を本当の意味で豊かにしていくためではないでしょうか。
宗教(本当だったらもはや宗教とは言えない)を信仰することによって、自分が信じているもの以外は悪であると見てしまったり、自分の道を周りの人に強制させるというのは、いかがなものでしょうか?
本当に真実の教えとは言えないと思います。
このように申し上げていることも他を批判していることになるでしょうか?
そうであれば、本当に難しいですね。
ともかく、私たち人間はすぐに周りが見えなくなるということを日頃から常に細心の注意を払って意識しておかねばならないと思うのです。
自分以外の意見は排除しよう、自分の道に引きずり込もう、自分が信じているものは素晴らしいからそれを教えてあげなければ相手は不幸だ、自分以外の道は偽物だ、などと他を尊重せず、敬意を払えない宗教は宗教ではないと思うのです。
宗教はなんのためにあるのか?ということをまた改めて考えるということも必要ではないかと感じました。
色々な意見や思うところがあるかと思いますが、宗教に対し真剣に向き合って感じた、今の私の受け止め方でございます。
もしかしたら違う意見もあるかもしれません。
皆様がお感じになられたことや、お気付きのことなど素直にお教えいただければ幸いです。
コメントやお会いしたときなど、ぜひお待ちしております。

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺
兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号
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