御恩をいただき、教えに報いる

こんにちは。尼崎 武庫之荘 真光寺の楠木光雲です。

皆様、今年一年本当にありがとうございました。皆様方の支えにより御蔭様でたくさんの仏縁に恵まれました。

仏様との御縁をいただく度に、自分がいかに愚かであるか、自己中心的であるかということに対して、きちんと向き合えたような気が致します。

来年も仏恩報謝のお念仏を欠かさないことをしっかりと心掛けたいと思っております。

2014年も真光寺を宜しくお願い致します。

「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし」

皆様の支えはもちろんのこと、仏様の御恩、親鸞聖人の御恩に対しても感謝し、正確に受けとめ、その深い恵みに応じ、応える生き方をさせていただこうと努力していきたいと思っております。

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

ご本尊

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 真光寺の楠木光雲です。

 本日は私が尊敬している天岸浄圓先生のお言葉をご紹介させていただきたいと思います。

「宗教」「信仰」「信心」・・・。いろんな言葉がありますが、その基本はどういうことでしょうか。

お念珠を持ち、浄土真宗の式章をかけて、掌を合わせれば、真宗の門徒、仏教徒と思いこんでおられる方も多いのではありませんか。でも、そんなに単純なことでしょうか。「宗教」とは、格好をつければいい・・・、形式が大切だから、と考えておられる人も少なくありません。たしかに、形式から「宗教」や「信仰」に、入られる方も少なくありません。でも、やはり形式のみにとどまっておられる人が多いのも事実です。

「宗教」「信仰」「信心」・・・とは、実は、自分自身が人生のなかで、何を一番大切なものとするかを定める、いわば価値観の確立を意味することなのです。そのことを仏教的に表現すれば、「ご本尊」をいただくことといえるのです。

「ご本尊」だったら、お仏壇の「ご本尊」。お寺のご本尊・・・「今さらいわれるまでもない」と、おっしゃるかもしれません。でも、今、問題にしようとしているのは、形式的な「ご本尊」のことではありません。先に、申しましたように、あなたは自分の人生で、何を一番尊いものと定めておられますか。そして、その尊いものを、自身の言動や判断の原点とされていますか、ということです。

私たちは無意識のうちに、自分の経験を、判断、行動の基準としていることが多いのです。それは無意識のうちに自分自身を「ご本尊」としているのではないでしょうか。さらに、深く自覚していないでしょうが、経済的価値観を何よりも優先して、行動し、判断しているのが現代社会であると言っても、今や過言ではないと思われます。ならば、お金を「ご本尊」としているのではありませんか。

阿弥陀さまをご安置し、おつきあいの「お寺」があって、真宗の門徒といわれても、案外、阿弥陀さま以外を「ご本尊」とされておられることが多いようです。

阿弥陀さま、仏さまを「ご本尊」とし、その教えを依りどころとして、意識して生きようと努力される方を、本当は真宗門徒、仏教徒というべきです。ただし、自覚的信仰を持って生きることは、わがままに、自己中心的に生きようとする者には、窮屈なものともいえます。しかし、そこに人間として、尊い生き方が明らかにされ、二度とない人生であるからこそ、是非とも、尊く、豊かで、後悔のない生涯であれと願うべきでしょう。それを示してくださるのが、仏さまの教えです。ですから、教えにあわせていただいたことが、ご恩として慶ばずにはおられないのです。

 

この天岸浄圓先生のお言葉を聞かせていただき、自分の物事に対する価値判断がどこを原点にしなくてはならないのかを改めて考えさせられました。

一人でも多くの方々の胸に、このお言葉が響いてくださいましたら幸いです。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

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お経

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 真光寺の楠木光雲です。

本日はお経についてお話させていただきます。

皆様は、何故お経が作られたのか御存知でしょうか?

その一つの理由は、字が書けない人や学力が乏しい人でも仏縁を持ち、阿弥陀様のすばらしさやありがたさを感じれるようにするためです。

童謡を口ずさむように、お経も自然と口から出てくるようになればいいですね。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

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ものさし

皆様こんばんは。尼崎 武庫之荘 真光寺の楠木光雲です。

相田みつをさんがこのようなことを書いています。

 

「そんか とくか 人間のものさし うそか まことか 仏さまのものさし」

 

わたしたちは、物事を正しく見ることが出来ません。自分の都合の良いことを善と言い、自分に都合が悪いことを悪と言います。

そして、自分が作り上げた勝手な世界によって自分自身が苦しめられているのです。

わたしたちは浅はかな考え方であったり自己中心的なものさしでしか価値判断が出来ないのであります。

しかし、ありがたいことに仏様の世界を知れば、それに気付くことが出来ます。

真実の言葉、まことのこころに出遇うことによって「あれ、また私のものさしではかっていたな」と、自分勝手なものさしを振りかざしている己れの正体に、目を覚ますことが出来るのです。

鏡があるから、自分の顔に汚れがついていることに気付きます。それと同じように、仏様の世界があるからわたしたちは自分の愚かさに気付くことが出来るのではないでしょうか。

 

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

阪急武庫之荘駅南側 徒歩3分

溢れ出るお念仏

皆様こんにちは。武庫之荘 寺院 真光寺の楠木光雲です。

本日は御紹介したい言葉とお話がございます。

 

「みほとけの み名を称える 我が声は 我が声ながら 尊かりけり」

自分の口からお念仏が出る。自分の体の底から止めようもなく南無阿弥陀仏が湧き上ってくる。自分の声であって自分の思いで称えているのではないと驚く。しかし、その驚きはやがて歓びとなり、口からあふれるにまかせて、ただ念仏をした。

 

私も大切な人を亡くしたとき、なんだかいてもたってもおれず、南無阿弥陀仏とむしょうに称えたい気持ちになったのを思い出しました。

私たちが念仏を称えるのも、全ては阿弥陀様のおはたらきによってであります。

普段から意識せずとも勝手に口からお念仏があふれ出るぐらい信心深くなりたいものですね。

南無阿弥陀仏

浄土真宗本願寺派 真光寺

兵庫県尼崎市南武庫之荘1丁目8番5号

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