東日本大震災から8年 ご遺影ではなく阿弥陀様をご本尊にする意味

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

昨日は東日本大震災から8年が経った日でした。

1万8千人を越える死者・行方不明者を出した地震です。

たくさんの方々が大切な人を亡くされ、言葉に出来ないほどの厳しい現実を突きつけられた日となりました。

いつも私たちはお勤めをさせていただくときに、無量寿という命の根源に対して手を合わせております。

つまり、自分と最も関りが深い家族(故人)だけではなく、今を生きる私たち全ての命、御往生された方々全ての命(東日本大震災で被災された方々の命ももちろん含まれています)・・・全ての命の親(根源)に対して、手を合わせているのです。

3月11日という日は忘れてはならない日です。

そして、毎日のお勤めにおいてその方々の命に対しても私たちは手を合わせているということを忘れてはならないと思います。

お仏壇に故人様のご遺影をご本尊とせずに、阿弥陀様をご本尊にしているという意味をまた改めて味わわさせていただきました。

 

南無阿弥陀仏

生のみが我らではなく、死もまた我らなり

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

3日前の3月9日(2019年3月9日)、神戸別院で終活をテーマとした行事にスタッフとして参加し、お手伝いをさせていただきました。

そのときのことを少し書かせていただきます。
私は当日受付を担当させていただいたのですが、空き時間に私も納棺体験をさせていただきました。
生まれて初めてお棺に自ら入らせていただいたのです。
いつか自分もこんなときがくるのだろうと思うと、本当に色んなことを考えさせられました。
日本では死というものを隠していく傾向があるそうです。
テレビなどでもご遺体は映しません。
しかし、インドでは死というものをもっと直視します。
危険な崖があれば注意書きと一緒にそこで亡くなった方の顔写真も掲載するところがあるそうです。
生のみが我らではなく、死もまた我らなりというお言葉もありますように、死というものを感じることで生の大切さに気付かされるということもあるのかな?と思いました。
納棺体験だけではなく、模擬葬儀や専門家による終活セミナー、遺影撮影体験など盛りだくさんでした。
たくさんの方々の支えによって行事が成り立っているということにも気付かされましたし、とても貴重で有難い時間を過ごすことができました。

本当にありがとうございました。

南無阿弥陀仏

本日16時から 真光寺本堂にて

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

本日は待ちに待ったお経を一緒に読みましょうの勉強会の日です。

16時から約1時間程度、共々に学ばさせていただきたいと思います。

本日は、浄土和讃の6首を拝読致します。

わかりやすくスローペースで進めて参りますので、ぜひ皆様お越しくださいませ。

真光寺一同心よりお待ちしております。

南無阿弥陀仏

阿弥陀様とは何??

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

突然ですが、皆様、阿弥陀様とは何でしょうか?

お答えすることができますか?

なかなか難しいですか?

阿弥陀様とは量り知れない存在だからわからないまま受け入れていく、そんな言葉をよくお聞きします。

しかし、よくわからないものを私たちは大事にしようと思えますでしょうか?

正直少し厳しいと思います。

わからないまま受けいれていくという言葉も、きちんと説明しなければ、よくわからないものを無理矢理受け入れれば良いというとても無責任な言葉に聞こえます。

まず、わからないまま受けいれていくという言葉の誤解を解きたいと思います。

わからないというのはどうわからないかというと、阿弥陀様がよくわからないという意味ではなくて、私の小さい小さい眼で見た世界ではなくて、阿弥陀様という感性やお心は私たちのものとは到底かけ離れているぐらい素晴らしいから、理解したり実行したりするのは難しい。

でも、それほど素晴らしいものなのだから、実際に同じようにすることは出来なくても、頭でしか理解することが出来なくても大事にさせてもらいましょうという意味で、わからないまま受けいれさせていただきましょうとたくさんの方がおっしゃられているのです。

ここまで説明しなければならないというのは、仏教の奥深さをとても強く感じるのですが・・・とにかく阿弥陀様は量ることが出来ないからと言って、よくわからないものではありません。

阿弥陀様はまず命の根源だと思います。

お亡くなりになられた方々全ての命、また、今を生きる私たち全ての命、その根源です。

浄土真宗では阿弥陀様と言ったり、無量寿と言ったりしております。

インドの古い言葉サンスクリット語で、アミターユスというそうです。

命の命。命の根源。命の親。だから、親様親様と昔から親という風に表現しているわけです。

まず阿弥陀様という存在の意味しているものの一つがこれです。

もう一つが、教えです。

気付きを与えるものです。

浄土真宗では暗闇に光を放ち、パーっと道を切り開いてくれるようなものだから、無量光と言っております。

智慧とも言います。

インドの古い言葉サンスクリット語ではアミターバと言います。

教えについては書き上げると何文字になるかわかりませんが、それも全て阿弥陀様ということです。

阿弥陀様とは一つに全ての命の根源(親)、一つに気付きを与える教えであります。

もう一度だけ注意書きをしておきますけれど、冒頭にも申し上げたように量り知れない存在ということは間違いないです。

これだけではありません。

それこそ言い尽くせない意味があるのでしょう。

ほんの少しでも阿弥陀様を大事にできる手助けになればと思い、このようなことを記事にしてみました。

南無阿弥陀仏

「甘える」と「拠り所にする」は違う

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

本日はタイトルにもありますように、「甘える」と「拠り所する」は全然違うということを共々に味わさせていただきたいと思います。

いきなり本題に入りますが、浄土真宗は他力本願の教えです。

しかし、楽で何もしなくて良い訳ではありません。

今まで何百回と説明してきましたが、何もしなくて良い、何も変化がないならば、信仰しない方がいいです。

時間の無駄だと思います。

やはり、信仰させていただくからには私の上に変化が生じるわけでございます。

確かに、頭の先からつま先までどこを探しても私の心には仏様のような心は見当たらないですし、煩悩は生涯つきまといます。

私たちの命はそのままがもうすでに有難い命というのももちろんおさえておかなければなりません。

しかし、やはり仏様という存在によって色んなことを知らさせ気付かされたならば、行動を起こしていくべきです。

起こしていくべきというか、起こしていかざるを得ないのでしょうね。

起こしていかなかったら仏様に申し訳ないという感覚だと思います。

仏様に本来あるべき姿やお心を知らされたら、もう今までの自分の言動の愚かさに恥ずかしくて恥ずかしくてもうどうしようもなくてそれを脱したいと思うはずです。

もし、そう思わないならば、まだ仏様という存在を自分の中での本尊に出来ていないということだと思います。

もっと簡単にいうと、自分の人生で仏様という存在を一番大事と見れていないということです。

もしそう見れているのであれば、仏様が知らせてくれるその教えに対して、私もどうかそうでありたい、と思うのではないかと思います。

何を申し上げたいのかというと、やはり仏様の願いにかなった生き方を一生懸命させていただくということは本当に大切だということです。

そのままでいいという言葉を誤解せずに理解していくべきだと思います。

私たちの命は何が起ころうとも尊いと知らされます。

それに、仏様はいちいちこうしなさいああしなさいということは言わないけれど、やはり仏様にお教えいただいその生き方を、かたじけない(ありがとうとごめんなさい)という想いと共に、実行していきたいものでございます。

南無阿弥陀仏