私のものさし

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 寺院 真光寺 楠木光雲です。

私が最近大切にさせていただいている言葉をご紹介します。

それは「私のものさしで問うのではありません。私のものさしを問うのです」という言葉です。

私たちは、あれこれと自分というものさしで価値判断をしております。

でも、普通はそうだと思います。

仏法との出遇いがなければ、今まで経験してきたことや学んで得た知識を判断基準とするしかありません。

自分で自分を見るしかありませんし、判断するのも全て自分です。

しかし、自分で自分のことを客観視してもそれは所詮自分という小さな世界での眼なのです。

仏法はその自分というものさし自体を問うてくださるものです。

自分というものをしっかりと照らしてくださるのは仏法だけです。

「自分のことは自分がよくわかってる」だとか「私は自分をよく客観視できる」ということを言う人がいますが、それは少しあぶない考え方です。

自分という世界だけで生きている者には絶対気付かない気付きを与えるのが仏法です。

稲妻が走るほどのショックです。

自分は自分を中心に生きてきたとは到底思いもしなかった者に、自分こそが一番自己中心的に生きてきた!と心から思わせてくれるのです。

有り難い眼です。

唯一、自分のことを本当の意味で照らしてくれるのが、仏法です。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏と聴こえるところ

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は、法然聖人の有難いお言葉を通して少し味わわせていただきたいと思います。

法然聖人のお弟子様は親鸞聖人以外にもたくさんおられたそうです。 

あるとき、そのお弟子様方が法然聖人にお尋ねになられました。

「他のお偉いお坊様方は御往生なされたときに、立派なお墓を建て、きちんと納骨をされておられます。悲しきかな、あなたもいずれは必ず命尽きるときがきます。そのとき、残る私たちはあなたのお墓やお骨をどのようにさせていただければよいのでしょうか?」

法然聖人は答えられました。

「お墓やお骨、どうなっても構いません。あなた方に全てお任せします。ただ一つ覚えておいてください。南無阿弥陀仏と聴こえるところ、私の遺跡なり。」

法然聖人は、お念仏(南無阿弥陀仏)が聴こえるところが私のお墓である、と言われたのです。

もう少し言うと、往生したら南無阿弥陀仏が私であるとおっしゃられたのです。

つまり、いつでもどこでも南無阿弥陀仏でつながっているということをお弟子様方に伝えられたのだと思います。

有難いお言葉です。

南無阿弥陀仏