帰命は本願招喚の勅命なり

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は親鸞聖人の御言葉を通して、帰命(疑い心をはずして仏様を素直に受け入れる)とは、一体どういうことなのかということを共々に味わわせていただきたいと思います。

親鸞聖人の御言葉に「帰命は本願招喚の勅命なり」という御言葉がございます。

この御言葉を出来る限り分かりやすくご説明させていただきたいと思います。

難しそうな御言葉に感じてしまいそうですが、どうかご安心ください。

簡単に、噛み砕いて、ゆっくりご説明させていただきます。

ぜひ、最後までご覧いただければ嬉しく思います。

「帰命」は、先ほども申し上げたように、疑い心をはずし、仏様を素直にそのままに受け入れるということです。

「勅命」は、天皇陛下の命令という意味です。

今と鎌倉時代とでは天皇陛下の立ち位置が全然違っています。

今よりも昔の方が言うまでもなく、国民にとって天皇陛下は絶対的な存在であったと思います。

綸言汗の如しという言葉もございますように、天皇陛下の命令は一度出されますと引っ込みがつかない、取り消しがないほど絶対的なものであったのですね。

汗は体の外には出ますが、体内に入っていくことはありません。

一度出されたら引っ込みがつかない天皇陛下の命令を汗にたとえられたのでしょう。

親鸞聖人は仏様の教えを、天皇陛下の命令と同じように、取り消しがなく、引っ込みがつかないぐらい絶対的なものであると味わわれていたのだと思います。

「本願」は、仏様が私たちのことを願ってくださっているという意味です。

9割9分の宗教(浄土真宗以外の宗教)が、私たちの願い事を仏様や神様に聞いていただくという風に考えています。

しかし、浄土真宗の場合は、”仏様が”私たちのことを願ってくださっていると味わわさせていただくのです。

仏様はどんな風に願ってくださっているのかと言いますと、あなた方よ本当に真実の世界に目覚めてくれよ、と願ってくださっているのだと思います。

私たちは普通に人間として生きることが出来ていると思っていますが、実は、本来あるべき姿、心、感性では生きることが出来ていないのです。

自分では到底気付けませんが、仏様の眼で見たとき、尊い心や感性で生きることが出来ていないと気付かされます。

つまり、本当に人間として生きることが出来ていないということです。

そんな私たちに、仏様はどうか真実の世界(本来あるべき姿や心、感性)に目覚めてください、と願ってくださっているのです。

「招喚」は招き喚び続けているという意味です。

招という字には、手で引き寄せるという意味があり、召という字には、口で引き寄せるという意味があります。

どちらも、引き寄せるという意味があるということです。

喚という字には、声をかけてよぶという意味があります。

つまり、召喚というのは、そのままですが、招き喚ぶという意味があるということです。

親鸞聖人は喚という字の読みがな(左訓という。説明対象となる本文の左側に、語句の説明や漢字の読みなどを記したもの。)を”よぶ”ではなくて、”よばふ”としておられます。

“よばふ”は、「よぶ」という動詞に「ふ」という継続を表す言葉を合体させた言葉です。

つまり、親鸞聖人は仏様のはたらきは、一時的なものではなく、常にずっとよび続けているという解釈をしておられたということがうかがえます。

突然ですが、ご本尊には三種類ありますが、絵像とお木像と、もう一つはなんでしょうか?

そうですね。南無阿弥陀仏と書かれたお名号です。

名号の「名」は、夕暮れ時の「夕」と「口」が合わさって「名」という漢字が成り立っております。

夕暮れ時は昔は街灯などなく、とても暗かったと思います。

暗い所では、相手が何者か?どんな顔をしているのか?も分かりませんし、何もしなければ、自分の正体を相手に分かってもらうことも出来ない状況です。

どうすれば、自分の正体を相手に知っていただくことが出来るのかというと、口で名前を名乗るのです。

私はこういう者です。O O Oと申します、と名前を名乗るのです。

「名」という字には、正体を知らせるという意味があります。

仏様は私たちに正体を知らせてくれています。

私はあなた方の本当の支えとなる真実の教えですよ、と。

それから、私はあなた方の命の親(命の根源。還っていく場所)ですよ、と。

「号」という字は、旧字体が「號」です。

「號」は虎という字がついているように、大きな声で叫ぶという意味があります。

つまり、「名号」とは、大きな声で私はあなた方の支えとなる真実の教えであり、命の親ですよ!と知らせてくれているということです。

ですから、南無阿弥陀仏のご本尊をお名号と言って大事にしてきたのです。

まとめますと、「帰命は本願招喚の勅命なり」という親鸞聖人の御言葉は、仏様に対して疑い心をはずして素直に受け入れることはどういうことなのか?を教えてくれている言葉です。

帰命とはすなわち、仏様が私たちに真実の世界に目覚めてくれよと願ってくださっている、そのよび続けてくださっているおよび声を、天皇陛下の命令ぐらい、引っ込みがつかず、取り消しがないぐらい、大切なものであると味わわせていただくことなのですよ、と味わわせていただくのです。

長い文章になりましたが、出来る限り分かりやすい言葉を用いておりますので、お許しいただければ幸いです。

親鸞聖人の御言葉はとんでもなく深く、とんでもなく有難い御言葉だと、改めて思いました。

南無阿弥陀仏

実は気付いていないこと

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は、実は気付いているようで、気付けていないこととは?というテーマでお話させていただきます。

今までのご自身の生活や言動を振り返りながら自分自身に問いかけてみてください。

こんなことはないでしょうか?

してやったことはずっと覚えているのに、

していただいたことは記憶に薄い。

足を踏まれたこと(迷惑をかけられたこと)はずっと覚えているが、

人の足を踏んだこと(人に迷惑をかけたこと)を反省して悔やんでいることは少ない。

このようなことを常に意識出来ていたでしょうか?

おそらく、意識出来ていないときがあったと、思い当たる節があったはずです。

もしかしたら、こんなこと当たり前に意識しているよ、とおっしゃられる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、だいたいそのような言葉が口から出ている時点で少し違う気がします。

していただいたことや、自分が人様に迷惑をかけているという自覚がある人の口からは、おそらくそのような言葉ではなく「そうですね。本当に申し訳ないことです。」という言葉が出てくるはずです。

難しいことかもしれませんが、周りの方々にしていただいたことや、自分が迷惑をかけているという部分にしっかりと目を注いでいきたいです。

忘れてもまた何度も思い出さねばならないことだと思います。

南無阿弥陀仏

自己を知らされる

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日も皆様と共々に味わわせていただきたいと思います。

仏様を大事にさせていただくということは、すなわち、自己を知るということです。

仏様という清らかな心、感性、生き方を味わい、大切にすればするほどに、自己があぶり出されます。

私はこのようには(仏様のようには)なれていないということを気付かされます。

仏様を尊いと位置付けることは、すなわち自分自身と向き合うことでもあるのです。

また今日も、自分自身がどのような生き方をしていたか?自分自身の感性は如何程のものであったか?ということを味わうことが出来ました。

光が当たれば影が出るように、自分の愚かさや恥ずべき心をあぶり出してくれる光(光)が私を照らしてくれているのだと強く感じます。

大変有り難いことです。

南無阿弥陀仏