同体慈悲のお心

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

仏様のお心があたたかく、広大であるということを前回の記事で書かせていただきました。

今回は、その仏様のお心を、同体慈悲のお心という表現を通して、より一層深く味わわせていただきたく思います。

突然ですが、皆様は足の子指をどこかにぶつけたことがありますか?

私は今までにそういうことが何度もございます。

とても痛くて、思わず足をおさえて、うずくまります。

足の子指は体の先の先でございますが、先の方だからといって、痛くないということはございません。

ダイレクトに脳に「痛い!」ということが伝わってきます。

それは、子指も同じ体であり、繋がっているからです。

仏様と私は離れておりません。

同体、つまり、一つなのです。

私が痛み悲しみを抱えておれば、そのままの痛み悲しみを仏様も感じておられるということです。

本当に幸せの道を私が歩んでおれば、仏様も同じく、喜んでくださっているということでございます。

私が救われなかったら、仏様も救われないのであります。

同体慈悲のお心で、私と一つとなってくださっているので、仏様はどこにいらっしゃるだろうかと探す必要はございません。

もうすでに私と一体となってくださる仏様でございます。

本当に有難いことです。

南無阿弥陀仏

親様の呼び声

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

8月に入り、自坊ではお盆のお参りに行かせていただいております。

お盆は、宗教や宗派などによって考え方が全く違います。

世間一般的に仏教でお盆といいますと、8月13日から15日のことをいい、この期間に、亡き人が我々の世界に還ってくる、そしてまたその期間を過ぎればお浄土に参られるという受け止めだと思います。

しかし、実はこういった考え方は浄土真宗以外の宗旨で考えられていることであって、浄土真宗では、このような捉え方は致しません。

たくさんの方々に親しまれている浄土真宗でありますが、実は、とても特異で特殊な考え方をしている宗旨だと私は受け止めております。

浄土真宗では、どのように捉えているかといいますと、この13日から15日に限らないということでございます。

お盆も特別な日かもしれませんが、毎日が特別な日であると考えさせていただきます。

365日24時間、1秒たりとも途切れることなく、仏様は私とご一緒にいてくださり、私のことを抱きしめてくださっています。

ですから、毎日毎日そのことを喜ばせていただこうというお宗旨ではないかな、と受け止めさせていただいているのであります。

仏様のことを大切に思うことも大事ですけれど、親鸞聖人はもっと大事なことを教えてくださいました。

それは、仏様から、絶えず大切に思われているということです。

私が思うよりも、もっともっと大切にあたたかく私を思ってくださる仏様であります。

どうしても、我々は往復で物事を考えがちです。

そのようなクセ(性質)があるのだと思います。

でも、親鸞聖人は片道の救いを大切にお教えくださいました。

親鸞聖人を慕う者としては、やはり、親鸞聖人の歩まれた道を同じく辿らせていただき、片道の救いに全力で着目させていただくことが大切だと思います。

違いがあるところには大きな特色があらわれており、そしてそこには、浄土真宗の素晴らしさもたくさん秘められているのだと思います。

違いがあるところはそれだけではありません。

ご本尊の仏様の姿もそうです。

奈良の大仏様は座ってらっしゃいまして、座像といいますが、浄土真宗の仏様、阿弥陀如来様はお立ち姿の立像でございます。

座像は、仏様を目指す修行者を見守る姿だそうで、どかんと構えてらっしゃいまして、頼り甲斐があり、これはこれでとても有難いと思います。

しかし、裏を返せば、条件が問われ、修行ができない者や知識がない者、体力がない者にとっては救いからもれるという不安がございます。

一方、阿弥陀如来様はこちら側に一切の条件を問わないで立ち上がり、こちらに届いてきてくださるお方です。

足がそろっているのも、今からあなたのところに向かっていきますよ、という意味ではなく、もうあなたのところに私はたどり着いていて、あなたを抱いておるぞ、とおはたらきくださっているのです。

お立ち姿は、色んな味わいが出来ます。

私は、このお立ち姿を親の姿といただいております。

先達たちは、阿弥陀如来様のことを親様といって、巧みに喩え、大事に継承してきてくださいました。

阿弥陀様が親であるならば、私たちは仏様の一人子であります。

私は親になったことはまだありませんが、幸いにもあたたかく両親に育ててもらい、そして、兄に子供がいますので、身近に親心を味わわせていただいております。

親は子があぶないところに行こうものならば、あぶないと言葉を発するよりも前に、即座に抱き抱え、安全な場所に誘導すると思います。

何故、親は子があぶないときそういったことができるのでしょうか?

それは、おそらく目を離していないからだろうと思います。

親でなければ、他のところにも目がいっているため、気付くのに数秒かかるかもしれません。

しかし、親は子があぶない状況になれば、間違いなくそれをいたわり、即座に抱きしめるはずです。

阿弥陀様のお立ち姿は、私のことが心配で心配で仕方がないという、心配の極みの姿(親の姿)でありました。

一人一人のことを、仏様は、私が親であるぞ、あなたは私の子なのだと呼びかけてくださっているのです。

親の呼び声、子の返事、ふたつにひとつ、南無阿弥陀仏

といううたがありますように、その呼び声に対してお返事させていただきたいものでございます。

しかしながら、私はといいますと、その呼び声にはなかなか気付けず、受け入れることが出来ず、つっぱねているのが現実です。

親指と子指だけをたてるとそれも味わうことができます。

親は子の方を見ていますが、子はどうでしょうか?

親の方を見ずに、そっぽ向いております。

親のあたたかい眼差しに背を向け、逃げるようにしております。

それでも、その子を追いかけて、抱きしめてくださるのが親なのだと思います。

親鸞聖人は、阿弥陀様のお心を摂取不捨(おさめとってすてない心)のお心といい、もののにぐるをおわへとるなりと、逃げている私こそを目当てとしているのが、阿弥陀様なんだと、受け取められました。

どこまでいっても、阿弥陀様のお心は広大で、有難いものでございます。

そういったことをお盆に限らないで、毎日、ああそうだったなそうだったなと頷いて、感謝お応えの生活を過ごさせていただきたいです。

南無阿弥陀仏