目を開けていながら目を覚ましていない

皆様こんにちは。浄土真宗 尼崎 武庫之荘 真光寺 楠木光雲です。

本日も皆様とご一緒に色々なことを考え、味わわせていただきたいと思います。

さっそく本題に入りたいと思います。

悟るという言葉を使いますが、悟るとはどういうことでしょうか?

悟るとは目覚めるということです。

私たちは目を開けていながら目を覚ましておりません。

仏陀とは覚者。つまり目が覚めた方です。

目が覚めるとはどういうことでしょうか?

全て我が計らいによって生きていたということに気付かされることです。

別の言い方をするならば、悟ることが出来ないことを悟るのです。

また、無分別智(分別がない智慧の世界)ということです。

若いと老い

健康と病気

生と死

これは極一部の内容(例)ですけれども、これらに関しても我が計らいによって分け隔ててしまっているのが私たちです。

具体的に上の内容(例)でいうと、左側の「若い」「健康」「生」が幸福であり、右側の「老い」「病気」「死」が不幸である、というように分け隔ています。

しかし、本当はこれを分け隔て考えるのではなく、その分別(自分勝手な眼)を取り除いてくださるのが仏法だと思います。

私たちの命は人々を導く仏様に成らせていただく尊き命であり、年齢を重ねていけばいくほどに法悦の深みが出てくる、というように、無分別の眼でありのままに物事を見ることが目が覚めているということだと思います。

私たちはやはり、虚妄分別という見方から逃れることは出来ません。

頭の中では無分別の世界も納得はできるのですが、いざ自分の身に降りかかると到底無分別の領域には入っていけないのです。

慈悲のような心で接しているということを思ったとしても、それは自分なりの慈悲になってしまうのです。

ここまでは大丈夫だけれど、ここからは自分を犠牲にはしたくないなどと、自分の中で線引きをしています。

私たちには限界があります。

他者のために、自分の一切を捨てられる方を仏様というのではないかと思います。

それも、嫌々に捨てるのではないのです。

喜んで自分ではない他者に与えていけるのだと思います。

やっぱりそう考えると、仏様には到底なれません。

なれるなど微塵も思えません。

でも、そういう逆立ちしても天地がひっくり返ってもなれない素晴らしい心や姿を自分の中で持つということは大変有難いことです。

「私たちは目を開けていながら目を覚ましていない」

この言葉はとても深い言葉だな、と色々考えさせられました。

南無阿弥陀仏

心に響く言葉

皆様こんにちは。浄土真宗 尼崎 武庫之荘 真光寺 楠木光雲です。

本日は感銘を受けた、心に残る言葉をご紹介させていただきます。

梯実圓和上という方が「死ぬまでこのことは忘れへんからな!って思うことがあるかもしれないけど。どうだろう。死んだらいやなことも忘れたるからな!って思ってみてはどうだろうか?」とおっしゃられたそうです。

この言葉にはものすごくたくさんの意味が詰め込まれていると思いました。

私たちの心は人の発言一つで腹を立て、自分を中心に生きています。

尊い命も、自分の都合の悪いことをされたら価値がない命であると判断し、憎しみの心までも出してしまう私たちです。

ただ仏様という御心であれば、どんなことも自分の都合ではなくありのままに受け入れていけますし、どこまでも他者の幸せを一番に考えていけるのです。

ということがこの短い言葉に集約されていると感じました。

この言葉を聴いたとき本当にしびれました。いい言葉です。

南無阿弥陀仏

宗教とは?浄土真宗とは?

皆様こんにちは。浄土真宗 尼崎 武庫之荘 真光寺 楠木光雲です。

本日は、宗教とは?浄土真宗とは?一体なんなのでしょうか?ということを御一緒に考えてみたいと思います。

宗教の「宗」という字には要という意味があります。
扇子も要の部分が壊れてしまったら全体がバラバラになってしまうように、要の部分が全体を成り立たせているといっても過言ではありません。
宗っていうのは、つまり、最も肝心要なものということです。
つまり、宗教とは、自分の人生において最も大切な存在に教えが置かれることだと思います。
私たちは何が中心にきてるのか?と、自分自身に問いかけてみたらやはりどこまでいっても「自分」というものを一番として、分別の中で生きてしまっております。

自分と他者は別の存在と分別した場合、どういうことが起きるでしょうか?

他の痛みや悲しみを他人事としてしまうということです。

無分別であれば、あなたの痛みは私の痛みであり、あなたの悲しみは私の悲しみである、というような生き方になるわけです。

できるかどうかはさておき、どんなときもその無分別のお心にかなった(リードされて)生活を一生懸命させていただくということが専門用語で他力本願というのではないでしょうか。

無分別の心は極一部ですが、素晴らしい尊きお心だと思います。

大切にさせていただきたいと思います。

南無阿弥陀仏

2019年5月7日 真光寺 永代経法要

皆様こんにちは。浄土真宗 尼崎 武庫之荘 真光寺 楠木光雲です。

本日、お寺周りの掃除をさせていただきました。お寺は自分のものではなく、お借りしているものであり、皆様の場所であるということをまた感じさせていただきました。

最近、行事などにお見えになる方が少なくなってきました。

皆様の顔色をうかがって「まあお忙しいですものね。お体が調子の良いときだけでも…。」とは言いたくありません。

ぜひお越しくださいませ。

お体がよほど悪ければ難しいとは思いますが、お越しいただいてお聴聞することを目標に体を整えてください。

お忙しくてもお時間をどうにか作ってください。

皆様にとって都合の良いことだけを言う接しやすい僧侶もいいかもしれませんが、やはり本当は皆様と共々にたくさんのことを学び味わわせていただきたいと思っております。

嫌われてしまうかもしれませんが、思い切って申し上げます。

皆様でこの永代に渡って続いているこのご法縁。

大事にしていきましょう。

真光寺の本堂がパンパンになるぐらいの人がお越しいただけることを、真光寺一同、心より願っております。

南無阿弥陀仏