皆様こんにちは。浄土真宗 武庫之荘 真光寺 楠木光雲です。
一体、お経には何が書かれているのでしょうか。
専門用語や漢文といった難しい言葉で記載されていますので、正直なところさっぱり分からないというのが本音ではないでしょうか。
そこで、本日、お経に何が書かれているのかを簡単に噛み砕いてご説明させていただきたいと思います。
もちろんこれが全てではありませんし、細かく解釈した方が良い部分も多々あると思いますが、少しでも皆様に伝われば幸いです。
インドのお釈迦様が私たちの人生(歩んでいく道)を一切皆苦という言葉でお示しくださいました。
文字通りなのですが、私たちは、一切の全ての事柄に対して悩み、苦しみを抱くのだということです。
現代的な表現で申し上げますと、何をしていてもそこにはストレスがかかるということです。
何故そのようなことが言えるのかと言いますと、確かに、表面的には嬉しいことや楽しいことがたくさんあります。
しかし、それは残念ながら表面的なものであり、根っこの部分に「老・病・死」というものがあるから、やはり私たちの人生は一切皆苦なのであります。
「老」
あなたは老と若であったらどちらがいいですかと質問されたら、大半の方が、若いときの方が体が丈夫であった、覚えることがスッといったなどと、若が良いとおっしゃられるのではないでしょうか。
どんな人も皆、歳を重ねていかなければなりません。
それに、反対に、若い人が早く大人になりたいとか一刻も早く経験を得たいと思うことも、そこに悩み(ストレス)を感じているということではないでしょうか。
「病」
避けては通れないのが病気であります。
病気をすることで精神的にも肉体的にも非常に悩まされることがあります。
病気をしてしまうことで、そこに強いコンプレックスを感じてしまうこともあるでしょう。
病気をして本当につらい想いをされている方が数知れずいらっしゃいます。
「死」
自分自身の死ということももちろん不安ですし、つらいことでありますが、何よりも、大切な人が亡くなるという現実は言葉に出来ないほどの悲しみであります。
しかし、人は100%の確率で命を終えていかなければなりません。
このように、私たちは「老・病・死」というものが根っこの部分にあるから、何をしていても安心しきることが出来ません。
表面的な楽しさはあっても、根本的には一切皆苦なのであります。
お釈迦様は人生山あり谷ありだとはおっしゃられませんでした。綺麗事ではなくはっきりと現実をありのままに表現してくださったのであります。
けれど、これでお釈迦様の説法は終わりではありませんでした。
重要な続きがあったのです。
その「老・病・死」を乗り越えていくお心があるのだとおっしゃられました。
そのお心を仏というのだと。
私たちは「老・病・死」というものに対してなかなか前向きになれません。
マイナスにしかどうしても見ることが出来ないのであります。
「老」が体を痛めていくだけなのだと、「病」が体が蝕まれていくだけなのだと、「死」が人生の敗北、終わりなのだとしかなかなか思えません。
しかし、「老」は歳を重ねることによってどんどん心、感性、気持ちが豊かになっていくのだと、「病」はいただくことによって当たり前のことが当たり前ではなかったと諸行無常の世界を味わうことができることなのだと、「死」はまた浄土という一人一人の心の中に生まれて往くこと(そこからスタート)なのだと、思えるお心を仏というのですよ、とお示しくださったのです。
どんな逆境(マイナスの世界)においてもそこに光(プラスの世界)を見出していけるお心を仏といい、それが私たちの根本にある「老・病・死」を乗り越えていくのだと教えてくださったのです。
私たちは生涯、仏というお心にはなれないですが、そのお心とは真逆の生き方をしている自分を恥ずかしいと思うと共にそのお心に頭が下がります。
そのようなお心には到底なれないですが、そのお心に出来る限りはかなった生き方(考え方)を心掛けていきたいものであります。
お経には、そのような私たちが生きていく上で大切にしなければならないお心が事細かに漢文や専門的な用語で書かれているのです。
そのようなことを頭で想いながらお経を聞いたり、拝読していただきますと、より一層、法要が有意義なお時間になるのではないでしょうか。
「過去は変わります。過去の事実は変わらないが、過去の意味は変わります。過去の意味が変わると、過去の景色が変わります。」(梯実圓和上の御言葉)
南無阿弥陀仏
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