お勤めを行う意義

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

本日はお勤めを行う意義について、お話させていただきます。

お勤めを行う意義はたくさんありますので、全ては言い尽くせませんが、少しでもお伝え出来ればと思い、お話させていただきます。

共々に味わわさせていただきましょう。

お勤めを行う意義は大きく、二つあると思います。

一つは故人様をお偲びするということ。(亡くなられた方全ての命、いや、もっと申し上げると量り知れない命に対して手を合わせいただけるともっと有難いと思います。)

もう一つが、自分自身の地獄性に気付かされること。向き合わせていただくこと。

この二つではないかと思います。

ある副住職様から以下のようなお話をお聴きしました。

鬼の絵が描かれた掛け軸を真宗大谷派の香樹院徳龍という方に見せ、その鬼の掛け軸に対して最も適している言葉を教えてください、とある方が依頼したそうです。

すると、香樹院徳龍様はどのようにおっしゃられたのか?といいますと、「人の心の奥の院 引き出しみれば これぞ本尊」というようにおっしゃられたそうです。

つまり、私たちの心の奥には鬼がいるぞ、とお示しくださったということでございます。

よく仏教において鬼や閻魔様や地獄が登場致します。

何度も申し上げていることですが、これらは架空の世界ではなく、私たちの心を表現してくださっているのです。

鬼は人を責める心。

閻魔様は、人をさばく心。

地獄はそれら二つの心があり、ドロドロとした劣悪な心。

を表しています。

その地獄の心に気付かせていただくのは、やはり自分の力ではないと思います。

本来あるべき姿や尊きお心を教えてくれる智慧の光に照らされるからこそ、その真逆の地獄性のある私に気付かされるのであります。

正反対の尊き存在に対して手を合わせることで、私の地獄性に気付かされることは本当に大切なことです。

親鸞聖人も「わたしの心は仏様のようだ」とは言わず、「わたしの住処は地獄である」とどこまでも謙虚におっしゃられました。

お勤めを行い(お念仏申し上げて)、量り知れない命や尊きお心に手を合わせ、自分の地獄性としっかりと向き合わせていただきましょう。

 

南無阿弥陀仏

拝んでいるのではなく実は・・・

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

本日は、仏花を通してお味わいさせていただきます。

以前にも記事にさせていただいたかもしれませんが、何度もお聴かせいただきましょう。

仏花は何故こちらに向けられているのでしょうか?

ご本尊が奥に安置されているので、ご本尊の阿弥陀様にお花の裏側を見せることになります。

それは、失礼に値しないのでしょうか?

と、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、これが浄土真宗のお荘厳(お飾りの仕方のことです。)でございます。

仏花は浄土真宗において、仏様のお心を表していると言われています。

つまり、その仏様のお心が常に私たちの方に向けられているということを表しているのです。

お花などお供え物をするのは、私たちでありますが、お供えしたその瞬間から、もうそのお供えは私たちに向けられているということを忘れてはいけないと思います。

拝んでいるのではなく、実は拝まれていたという感覚で手を合わせられれば良いですね。

南無阿弥陀仏

お念仏やお勤めはどんなときに?

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日はどんなときにお念仏やお勤めをするのがいいか?というお話をさせていただきます。

よくこのような方がおられます。

「お墓参りへ行ってきました。大変気持ちが落ち着きました。」

「いつもお勤めをすると気持ちがスッとします」

毎回このようにしかお答えになられないのです。

確かに、そのようなときもございます。

お勤めさせていただいて、本当に良かった、モヤモヤしていたこともお勤めを通して色々整理出来た。

そのように心から思うときも、もちろんございます。

しかし、残念ながら毎日どんなときもお勤めをし、お念仏を心掛けておりますと、そのようなお心持ちではないときが出てくるのではないかと思うのです。

もし、毎度毎度必ず先ほど申し上げましたお心持ちでお勤めをすることが出来ている方は、仏様に近い存在ではないかと思います。

それかもしくは、お勤め(お念仏)をしている時間が極めて短いかのどちらかだと思います。

人間、やはり毎日いつでもどこでもなんどきでもお念仏をしていれば、清らかな心ではないときもあるでしょう。

ものすごくつらいことや悲しいことがあるときは、正直手を合わせるどころか生活をしていることもしんどいというときもあるでしょう。

誰かと喧嘩をしたり、嫌なことがあれば、腹立たしい気持ちのときもあるでしょう。

何を申し上げたいのかといいますと、必ずしも清らかな心でお称えしなければならない、ということはないということをお伝えしたいのです。

反対に、自分勝手な心のとき、腹を立てているとき、つらくてどうしようもなく苦しいとき、嫌いな人が亡くなったとき、ドロドロとして聞いてられないぐらい最悪なことを考えているとき・・・であればあるほど、お念仏申させていただくべきなのです。

そのときこそ、その心と向き合える、お育てをいただくお時間になると思います。

あ!また私の心はこんな状態であったか。

私の心はどこまでも劣悪なものだな。

というように、より一層学びや気付き、深い味わいが得られると思います。

仏様は全てを見抜かれておられるというお言葉もあります。

泥水のように濁りのある心をもっている私なのに、それでも尊い命だと教えてくださるのであります。

自己中心的な心は恥ずべきことであるけれど、なかなかなくすことは難しい。

でも、本来あるべき姿を大切に、自分の心に気付いておくれよ。

というように、どこまでも私に、はたらいてくれているのではないかと思います。

だからこそ、どんなときもお念仏申させていただきながら、そうであったかそうであったかと頷いていくべきだと思います。

喜怒哀楽。いつでもどんなときも、心の中で、口に出して、頭の中で、色んな方法で、お念仏させていただきましょう。

お念仏させていただくときに、私の状態は関係ありません。

いつでもです!

南無阿弥陀仏

道徳や世間法を超えた教え

皆様こんにちは。尼崎  武庫之荘  浄土真宗  真光寺  楠木光雲です。

本日は、宗教が道徳などの世間法(世間で通じているルールや常識)をはるかに超えているということについてお話させていただきます。

人間が無意識の内に世の中に存在するものと認識している良いこと(善)。

つまり、端的に申し上げますと、道徳。

例えば、ポイ捨てをしてはいけませんとか、嘘をついてはいけませんとか、人を傷つけてはいけませんとか・・・。

このような道徳や世間法と宗教を一緒だと思ってる方が多くいらっしゃいます。

しかし、それは大きな誤解であり、宗教(浄土真宗の教え)はこれらの道徳や世間法を遥かに超越しています。

誤解を招くといけませんので、先に申し上げておきますが、その道徳的なことであったり世間で通じている大切だとされるものを軽視するという訳では一切ありません。

けれども、ただ単なる道徳的なことであれば、わざわざお寺に集まって何度も何度もお聴かせいただかなくてはならないとまでは言えません。

しかし、道徳をこえる世界があるから、味わわせていただきたいのです。

どれだけ良いことを積み重ねても、簡単には変わらない地獄のような心が私にはあるのです。

その劣悪な心は、どれだけ離れたいと思っても、絶対逃れられないのです。

良いことをしなさい。良いことを積み重ねて良い心になりなさい。などという道徳の世界で踏み止まる教えではないのでございます。

どこまでも深い闇を抱える私に、その闇を破っていくぐらい強烈な光を与える、とんでもなく深い教えが浄土真宗の教えです。

決して、道徳と宗教を一緒にしてはならないと思います。

 

南無阿弥陀仏

最近特に大切にしている言葉

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は短いですが、素晴らしい言葉をご紹介致しますので、ぜひ最後までご覧くださいませ。

私が最近特に良い言葉だな!と感じた言葉を申し上げたいと思います。

変われという言葉は愛なき言葉である。

本当に愛ある言葉は「そのままでいい、私が変わりましょう。」である。

という言葉です。

このような仏様の心が凝縮している言葉を聴くと、短くても十二分に心に響きますね。

これは日常生活でも大事にしなければならないことだと思いますので、ぜひこの言葉を至るときに思い出してください。

南無阿弥陀仏

深過ぎる仏教

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は、仏教がとんでもなく深いものであるということをご理解いただきたいと思います。

仏教=先祖に感謝するもの 仏教=綺麗事を言うもの 仏教=道徳的に良さそうなものを学ぶもの 仏教=とにかく欲が悪い 仏教=支えられてることにとにかく感謝することを勧める 仏教=亡くなった人に手を合わせるもの 自分含め誰かの死の間近に活躍する教え

このように思っている方は仏教の深さをまだまだ理解出来ていません。

偉そうに申し上げて本当に申し訳ございません。

しかし、これは自分自身に言いきかせていることでもありますので、大きいお心でお許しください。

私はお寺に生まれながら、仏教に対して勉強するのが少し遅く、大学を卒業してから浄土真宗の専門学校に通い始めました。

浄土真宗の専門学校で学びを深めるまでの私は仏教に対して、正直上記のようにイメージしていたと思います。

しかし、触れれば触れるほどにそんな薄っぺらい教えではなく、もっともっと深いものだったのです。

浄土真宗の教えは今まさに触れるべき教えなのです。

年を重ねてから仏教を学び始めた方が良いなどという考え方ははっきり申し上げて、全くの誤解です。

そして、命尽きる間際だけ必要なものでもありません。

生活の中で、至る所で、はたらいてくださいます。

本尊とは自分の中での最上の存在(姿や心)です。

それが、浄土真宗によって転ぜられました。

自分というものを一番に考えていた者が、自分を中心にすることを恥じるようになったということです。

自分が常に中心にあった者が、自分を中心にしなくなったしたくなくなったというだけで、それはとんでもなく素晴らしいことだと思いませんか?

ましてや、あなたの喜びを私の喜びと考え、あなたの悲しみを私の悲しみと考えるという慈しみ悲しむ心が本当に素晴らしい姿だと気付かされたのです。

どんな命も年齢性別経験一切を問わず尊い命と見ることができる心が心から素晴らしいと気付かされたのです。

でも私の心は真逆ということにも気付かされました。

人の命が尽きて、本当に悲しい本当につらいということもあれば、人間そのようなケースだけではないでしょう。

大嫌いな人が亡くなるときもあります。

でも、精一杯手を合わせるべきです。

それは、私の都合で自分と人を分け隔てる心に気付かされるからです。

どんな命も尊いとみるお心が目指すべき素晴らしい心であるのに、私の心は地獄のように冷徹でぐちゃぐちゃなのです。

仏の心とはほど遠い私の心が見えてきます。

綺麗事や嘘は一切ありません。

良いことをすることはもちろん大切です。

でも、良いことをどれだけやってもやっても、わたしの心は仏様とは真逆なのです。

それだけ私の心は最悪最低なのです。

極悪最下の人間に極善最上の法が与えられるとはこのことかと知らされました。

人と喧嘩したとき、言い合いになったとき、人から話を聴かせてもらっているとき、食事のとき、掃除するとき・・・どんなときも私にはたらいてくれているのです。

あっと思い、行動を止めることが出来たときもありました。

反対に仏様の心に基づき、行動を起こすこともありました。

このままが最高にもうすでにお恵みの中だったと思えることもありました。

私に関わる人全ては私の仏様と思うこともありました。

反対に嫌いな人や、良くない行動を起こしている人は、実は私の心の一部を具現化させた私の悪の化身であるとも見れました。

私はこんな風に仏教を味わうことが出来ました。

味わえたり味わえなかったりの繰り返しですが、何度も何度も思い返したり、お育ていただいています。

深い深い仏教をたくさんの人が深く味わってほしいと強く思います。

 

南無阿弥陀仏

 

 

いつの時代にも通用する教え

皆様こんにちは。尼崎 武庫之荘 浄土真宗 真光寺 楠木光雲です。

本日は、仏教や浄土真宗の教えは何故、何百年何千年と続いているのか?ということについてお話したいと思います。

結論から申し上げますと、それはいつの時代も(過去、現在、未来)悩みの種は一緒だからだと思います。

どれだけ昔で食べるものや便利さにおいて苦労した時代であっても、どれだけ物に恵まれた時代であっても、根本的な苦しみは一緒です。

人は生まれることによって悩みがスタートし、歳を重ねて体を痛め、病気になり、命を終えるときがきます。

嫌いな人と共存しなければなりません。

愛する人との別れもあるでしょう。

求めているものは(物だけではなく心が満足いかないことも含む)なかなか思い通りに手に入らないです。

手に入っても、もっともっとと求めてしまうのが悲しきかな私たちです。

心や体は全く思い通りになりません。

自己中心的な我執も消せません。

だからこそ、どんな時代にも通用する仏教(浄土真宗の教え)はここまで続いてきましたし、これからも必ずなくなることはありません。

今一度よくよく考えてみると、当たり前のように毎日触れている教えはとんでもなく有難いものなのですね。

こんな素晴らしいものを学んだり味わわせていただいていることに、本気で感謝せねばならないと思います。

 

いつもありがとうございます。南無阿弥陀仏

あなたが使っている言葉

皆様こんにちは。武庫之荘 浄土真宗本願寺派 真光寺 僧侶 楠木光雲です。

本日は「あなたが使う言葉は何を意味しての言葉?」というテーマでお話させていただきます。
例えば輪廻転生、自力、他力、仏様、阿弥陀様。
世の中には色んな言葉があります。
その言葉は使う人によって大きく意味合いが異なります。
仏様という言葉だけでも本当に色んな捉え方があります。
人によれば、仏様は、大好きだった亡きご主人。
人によれば、仏様は、今生きている全ての生きとし生けるもの、それから亡くなった全ての命。無量寿。
人によれば、仏様は、我々が目指すべき姿。
人によれば、仏様は、我々が大事にしなければならない心。
あなたはどの意味を指して、仏様というお言葉、いや、色んな言葉を使っていますか?
それによって、会話が成立するときと成立しないときがあります。
仏様はいるか、いないかを問題にしている人に、なれるかなれないか、という話をしたら会話は当然成立しません。
輪廻転生をただ単に来世は何だろう?と思う人と、無量寿という命がどんな命にも散りばめられていると捉えている人では、輪廻転生の言葉の用い方が違います。
自力や他力を自分の力と他人任せのおべんちゃらと思っている人と、自力は我が計らいを交えることで、他力は仏様のおはたらきを受け入れてそのおはたらきにリードされることだと捉える人とでは、話をしている内容がズレていますし、異なります。
だからこそ、今この方はどのような意味でこのお言葉を用いているのだろうか?というところを少し意識させていただいております。
それから、私たち僧侶は、誤解を招かずに出来る限り正確にそのままにお取り次ぎをしなければならないと思うのです。
何千年と伝えられてきたものを出来る限り大事に正確にお伝え出来るように、心掛けたいと思います。

南無阿弥陀仏

蓮如上人 『白骨の章』

皆様こんにちは。武庫之荘  浄土真宗  本願寺派  真光寺  楠木光雲です。

本日は蓮如上人が書かれました「白骨の章」を味わわさせていただきます。

『白骨の章』

人間の浮草のような姿をよくよく見ますと、おおよそはかないものは、この世の始めと終わり、まぼろしのような一生です。
いまだに、万年も千年も生きたということを聞いたことはなく、一生は早く終わります。今でも、
年生きることは大変難しく、人が先か、私が先か、今日か明日かはわかりませんが、先立って行く人は、朝落ちた露よりも、激しいことです。
ですから、朝は元気な顔をしていても、晩には物言わぬ顔となります。無常の風が吹いてきたら、二つのまなこ閉じます。一つの息長く絶えます。その時に元気な顔も変わり、桃やあんずのような美しい肌も、その姿を失った時に、親類や身内のものが集まって、どれだけ泣こうと、悲しもうと、もう元には戻りません。やむをえませんので、葬式をして、朝行って見れば、残っているのは白骨だけであります。
このことを、人間の知性や教養や学問で考えても永久に解決しません。ですから、人間のはかないことは、年をとった、若いという定めはございませんので、どなたも早く、まさかという、生死の問題を心にかけて、阿弥陀さまにおまかせして、念仏申しながら、この一生を全うして下さい。あなかしこ。あなかしこ。

この御文章はお葬式などで拝読致します。

胸にグサッと突き刺さるような言葉で、非常に心に響きますね。

最近は月忌参りなどでも拝読させていただいて、よく味わわせていただいているのですが、改めて素晴らしい内容だと思います。

シンプルなのですが、とても大切なことを教えてくれています。

どんな人であっても、100パーセント命尽きるときがきます。

その単純なことを平気で忘れてしまう私でございます。

何度も何度も味わわさせていただこうと思います。

南無阿弥陀仏